「男性映画」とは言わないのに「女性映画」、なんかヘン。しかし長年男性支配が続いていた映画製作現場にも、最近は女性スタッフが増え、女性監督の活躍も目立ち始めてきました。長く男性に支配されてきた映画界で、女性がどう息づいてきたのか、女性の視点や感性で映画や社会を見たらどうなるか。毎日新聞映画記者の鈴木隆が、さまざまな女性映画人やその仕事を検証します。映画の新たな側面が、見えてきそうです。
2022.10.05
オスカー受賞! 「ハワーズ・エンド」「クライング・ゲーム」製作で国際的に 吉崎道代:女たちとスクリーン
オスカー受賞プロデューサー、吉崎道代さんのインタビュー3回目。日本ヘラルドで買い付けた「ニュー・シネマ・パラダイス」が大ヒット、「ハワーズ・エンド」「クライング・ゲーム」でついに米アカデミー賞を受賞。しかしヒットを確信した「ラストエンペラー」など製作に加われず、無念の思いをしたことも。波乱の映画人生は続く。
ジュゼッペ・トルナトーレ監督と吉崎道代さん
日本ヘラルドで買い付け作品が次々ヒット
--日本へラルド映画に入って、映画の配給権の買い付け、いわゆるディストリビューターの仕事を始めた。
白血病で死を宣告された17歳のイタリア人の少女とイギリス人の中年ピアニストの恋を、モンサンミッシェルを背景に描いた「ラストコンサート」(1976年)は泣きの映画だった。厳密には買い付けではなく、私の初のプロデュース映画だ。日本でのヒットは観客がどのくらい泣くかで決まる、イタリア人プロデューサーにそう話したのがきっかけだった。アメリカ映画「ある愛の詩」(70年)の変形コピー版で、日本でも大ヒット。50万ドルの製作費の合作映画で、1500万ドル以上の利益を上げた。
ほかにも「イノセント」(75年)、「カサンドラ・クロス」(76年)、「ミッション」(86年)、「モーリス」(87年)、「眺めのいい部屋」(87年)、「恋人たちの予感」(89年)、「尼僧の恋」(93年)など挙げたら切りがない。
買い付けは大きいお金が動くので一人で決めるものではないが、「ニュー・シネマ・パラダイス」は25万ドルか30万ドルぐらいで一人で決められた。業界のジンクスで、映画をテーマにした映画はヒットしないと言われていたが大ヒットし、世界映画史のベストテンの一つにも選ばれるほど。ジュゼッペ・トルナトーレ監督は私がローマに行くたびに、自宅近くのあまりきれいではないピッゼリーア(庶民向けレストラン)に招待してくれる。
プロデューサーのデイビッド・パットナムと吉崎道代さん
「ラストエンペラー」 天才・ベルトルッチの誘いも「当たるわけない」と却下され
--買うことができずに悔しい思いをしたこともある。
大きい映画を買い付ける際には、上司に相談したり、メンバーみんなに見てもらったりする。「ラストエンペラー」(88年)と「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(90年)は上司の反対で買い付けを断念した作品だ。
――「ラストエンペラー」は中国最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の半生を描いた、英国、イタリアなどの合作映画。当時香港を代表するスター、ジョン・ローンが主演、坂本龍一が音楽を担当。日本では松竹富士が配給して、配給収入24億5000万円と大ヒットした。
私も中国最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の自伝は読んでいた。親友でもあるプロデューサーのジェレミー・トーマスが企画し、日本配給権の先買いか合作映画の要請があった。製作費3000万ドルの大作でベルナルド・ベルトルッチ監督、シナリオもすばらしかった。しかし当時のイギリスでは中国が題材の映画企画は、投資家にとってご法度で、私の上司からも「中国の映画なんか当たるわけがない」と言われた。
映画の出来はシナリオの質と監督の情熱で決まる。監督は天才ベルトルッチ。説得の材料として膨大なプレゼンテーションをジェレミーと作り、日本の本社に送ったがなしのつぶてだった。ヒットを確信していた私はカンヌ国際映画祭でも奔走したが、結果は「ノー」だった。
アンソニー・ホプキンス(中央)と吉崎道代さん
「ダンス・ウィズ・ウルブズ」 人気絶頂・コスナーのプレゼンも「バファローなんか見ないよ」
――「ダンス・ウィズ・ウルブズ」は91年、東宝東和の配給で日本公開され、配収15億円。製作、監督、主演を当時人気絶頂だったケビン・コスナーが務め、南北戦争時の先住民と北軍の白人中尉との交流を描いた。米アカデミー賞作品賞などを受賞した。
企画のオファーは通常、インターナショナルマーケットに映画を売るセールス会社かプロデューサーから来るが、「ダンス・ウィズ・ウルブズ」の企画はケビン・コスナー側から直接私に来た。友人のプロデューサーが私をコスナーに推薦してくれたのだ。
シナリオを読むと実にすばらしかった。コスナーの絵コンテはそれまで見た中で最高だったし、日本の一ディストリビューターに企画をピッチ(短く説明)する彼は気迫がこもり、その情熱に打たれた。すでに5000頭のバファローを集めているとのことだった。しかし、上司は「バファローが何千頭もいたって人は見に来ないよ」と言い放った。
買い付けに必要なのは、勘と経験から培ったマーケット知識にスピード感だ。次に、プロデューサー、セールス会社との信頼関係。最初に映画を見る優先権をくれた彼らに、ノーを繰り返すとその関係は崩れてしまう。「ラストエンペラー」は日本でも大ヒット。アカデミー賞で作品賞など9部門受賞、イギリス映画では歴史的な出来事として映画史に刻まれている。「ダンス・ウィズ・ウルブズ」も日本で当たり、アカデミー賞で作品賞など7部門受賞の栄誉に輝いた。
「クライング・ゲーム」
メセナとバブルの波に乗り起業
--日本ヘラルド映画でヨーロッパ総代表として買い付け、ヘラルドとポニーキャニオンが作ったヘラルド・ポニーでヨーロッパ映画のビデオカセットや音楽著作権の買い付けもした。
ポニーキャニオンの石田達郎、ヘラルドの原正人ら多くの方に支えてもらった。買い付けに限界を感じてきたこともあって92年、NDF(日本フィルムディベロップメントアンドファイナンス)ジャパンという映画製作会社を作った。90年代の初めは経済バブルで、日本の大きな会社は文化を助けるメセナのシステムがあった。
最初は姉の紹介で住友商事に出向いた。ダメで元々の気持ちで20ページもあるビッチを行い、こういう形で映画を作りたいのでお金を出してくれるようにと依頼した。担当重役はなんと3000万円を約束してくれた。
住友商事はアメリカの映画会社を買い取って映画界への進出を考えていたが、他の大手の会社が損をして引き揚げてきているのを知り、どうしようかと考えていたタイミングだった。私は、彼らにとってどこの馬の骨か分からなかったろうが、日本ヘラルドの海外駐在員という経歴があった。
彼らにとって、自社内に映画部があれば、リクルートに役立つ。会社のイメージアップと優秀な学生の確保が目的だった。もうける、もうけないではなかった。続いて、バンダイ、横浜銀行、日本ヘラルド、イマジカなど大手企業が次々と株主になってくれた。当時の私はそんな背景など全く知らなかったが、NDFジャパンは発足した。
「ハワーズ・エンド」
インディーズは作品賞ノミネートが大事
--それが92年の「ハワーズ・エンド」につながっていく。「眺めのいい部屋」のジェームズ・アイボリー監督が、E.M.フォースターの小説を映画化した日英合作映画。英国の田舎の別荘を舞台にした人間模様を描いた。この年は、ニール・ジョーダン監督の、アイルランド紛争の中の友情を描いた「クライング・ゲーム」も配給した。
住友商事が最初に出資してくれたのが「ハワーズ・エンド」だった。アメリカでは「こんなエレガントな映画は見たことがない」と言われ、オスカーに9部門でノミネートされた。彼らの期待なしの〝レッスン料〟は数倍になって戻ってきた。ニューヨークの住友商事事務所には、多くのクライアントから称賛の電話があり、国際的名声も上がった。
ただ、この映画自体は私の趣味ではなかった。エレガントな映画は好きではなかった。シナリオを読んですぐにフェミニストの映画だと感じた。それでも、アメリカがシナリオだけで買ったので、日本でも当たると確信した。個人的に本当に好きだったのは、オスカーで6部門にノミネートされ、脚本賞を受賞した「クライング・ゲーム」だった。
--両作品とも日本では人が入ったし、評価も高かった。
そうですね。インディーズの映画というのはオスカーで監督賞や脚本・脚色賞は取っても、作品賞はメジャーしか取らないというルールみたいなものがあった。だから、ノミネートがすごく大切だった。
この2本があったので信用が生まれてイギリスの新聞がインタビューに来たし、イギリス映画が氷河期と言われていた時代に「救ったのは日本から来た女性プロデューサーだった」などとも言われた。風が吹いて当たっただけだったので、少し恥ずかしい気持ちがあったが、私としては同じ年の2作品で、世界の映画界の土俵に少し上がれたところ、という感覚だった。少しずつ前に進んでいこうと思った。
信頼支えに苦労いとわず
--95年にロンドンにNDFインターナショナルを作るが。
NDFジャパンが世界の映画界で認識され始めると、日本支社が私の了解なしに日本の税法を使ったスキームで投資家を募り、外国のプロデューサーと次々と映画を作り始めた。ロンドンにいる私は蚊帳の外。失敗作もたくさんあったが、国内外の映画界の認識はNDFジャパン=吉崎道代。苦労して作った会社の倒産が迫り、溺れる前に避難しなければならなかった。
NDFジャパンとたもとを分かち、95年にロンドンにNDFインターナショナルを設立した。ありがたいことに内外の映画界で、私への信頼はまだ薄れていなかった。インディーの映画会社なので、私が100%の株主になることと、株を切り売りするのではなく映画製作ファンドの投資家を募ることが大事だった。
--大きなお金が動く大変な世界、やめようと考えたことは。
全くない、大変な世界だから面白い。銀行勤めだって大変だろうが、私は面白みを感じない。しかし好きな映画の世界なら苦労とは思わない。他の仕事はできないし、(少し考えて)そう、お掃除の仕事ならできるかも。掃除するのは好きだから。でも、映画界で仕事を続けられたらそれでいいと思っている。
■吉崎道代(よしざき・みちよ) 映画プロデューサー。大分県出身。高校卒業後、ローマの映画学校に留学。1975年に日本ヘラルド映画に入社。欧州映画の買い付け業務に携わり「ニュー・シネマ・パラダイス」(88年)などを配給。大ヒットした「ラストコンサート」(76年)のプロデューサーも務める。「裸のランチ」(91年)、米アカデミー賞を受賞した「ハワーズ・エンド」(92年)、「クライング・ゲーム」(同)のプロデューサーを務めた。92年に映画製作会社NDFジャパン、95年英国にNDFインターナショナルを設立、「バスキア」(96年)、「タイタス」(99年)、「チャイニーズ・ボックス」(97年)などのヒット作を製作した。現役のプロデューサーとして活躍中。