「落下の解剖学」より ©2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

「落下の解剖学」より ©2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

2024.2.25

息詰まる法廷劇にダレ場なし 陪審員の気分で事件の真相に迫る「落下の解剖学」

第96回アカデミー賞授賞式は、3月10日。コロナ禍の影響に加え大規模ストライキにも直撃されながら、2023年は多彩な話題作、意外な問題作が賞レースを賑わせている。さて、オスカー像は誰の手に――。

高橋諭治

高橋諭治

2023年の第76回カンヌ国際映画祭でパルムドールに輝いたジュスティーヌ・トリエ監督のフランス映画「落下の解剖学」(2023年)は、グルノーブルの雪深き山荘で起こった中年男性の不審死事件をめぐるミステリードラマだ。映画の大半を法廷シーンが占める本作は、リーガルサスペンスの本場たるアメリカでも絶賛を博し、ゴールデングローブ賞で外国語映画賞と脚本賞をダブル受賞、アカデミー賞でも5部門にノミネートされた。
 
法廷で審理されるのは、死亡男性サミュエルの妻であるベストセラー作家サンドラの殺人容疑だ。真っ向から主張が対立する検察側と弁護側の熾烈(しれつ)な論戦は、事件の事実関係のみならず、サンドラとサミュエルの確執やサンドラの性遍歴にまでおよび、人間という存在そのものが裁かれていくような様相を呈していく。そんな本作の多層的な面白さを〝解剖〟していこう。
 

論点① 人里離れた山荘で何が起こったのか?

不審死事件の現場となったのは、人気作家のサンドラ、その夫で教師のサミュエル、視覚障害を持つ11歳の息子ダニエル、彼の愛犬スヌープが暮らす山荘。とある凍(い)てつく白昼、自宅前の雪原でサミュエルが血を流して倒れているのを、散歩から帰ってきたダニエルが発見する。検視で判明した死因は頭部の外傷。捜査の結果、サンドラが殺人罪で起訴された。
 
法廷で検事はサミュエルがサンドラに殴打され、3階のバルコニーから突き落とされたと主張する。一方、サンドラの弁護士バンサンは、屋根裏部屋の窓から身投げしたサミュエルが、物置に頭をぶつけて致命傷を負ったという自殺説を唱える。法廷には山荘の模型が持ち出され、CGによるシミュレーション、屋根裏部屋から等身大の人形を落下させた検証映像などが次々と映し出される。
 
この両陣営のやりとりが、実に具体的でサスペンスフルだ。そもそも事件発生時、サミュエルのほかに自宅にいたのはサンドラだけ。一見、このうえなくシンプルな状況だが、目撃者が存在せず、3カ所にこびりついた血痕以外にこれといった物証もないため、裁判の行方は混沌(こんとん)としていく。この手のミステリー映画では、黒澤明監督の「羅生門」(1950年)を嚆矢(こうし)とする〝やぶの中〟方式(複数の目撃者の視点を映像化し、それらの証言が食い違っていく物語の形式)がしばしば採用されるが、本作では検察側と弁護側それぞれの〝仮説〟が提示され、観客は陪審員や傍聴人になった気分で謎のベールに覆われた真実に思いをはせることになる。
 
加えて、日本やアメリカのそれとは異なるフランス流の裁判の進め方も興味をかき立てる。いかにもやる気満々の若き検事は、前のめりの攻撃的な口調で被告サンドラの罪を厳しく追及。対するバンサンは、かつてサンドラと親密な関係にあったことをうかがわせる優男風の弁護士だ。両者がそれぞれの主張をしている最中、互いに割り込んで異議を述べたり、女性裁判長があからさまにギョッとするようなリアクションを見せたりする描写の生々しさに目を奪われる。
 

論点②人気作家とその夫の間に何があったのか?

映画の後半に当たるこのパートは、いくつかのポイントをおおまかに書くにとどめておこう。まず検察が重要証拠として提出したのは、サミュエルのUSBメモリーから見つかった音声データ。そこには事件の前日、彼とサンドラの間に勃発した口論の一部始終が記録されている。当初はよくある夫婦間のいさかいと思われた2人のやりとりは、やがて尋常ならざる激しいいがみ合いへと発展していく。その10分以上にわたるシークエンスのまれに見る迫真性たるや、ノア・バームバック監督作品「マリッジ・ストーリー」(2019年)の描写に匹敵する。
 
続いて検察はサミュエルが精神科医のもとに通っていたことを前提に、サンドラの性的指向や性遍歴、ダニエルが視覚障害を負った7年前の事故について言及。さらにはベストセラー作家として成功したサンドラと、作家をめざしながらも長編小説が書けなかったサミュエルの間に渦巻いていた嫉妬や劣等感などの微妙な心理があぶり出されていく。おまけにこの夫婦は、自分たちの私生活を小説執筆という創作/虚構の題材にしていた。このことも夫婦間に錯綜(さくそう)する虚実の区別をいっそう曖昧にする。
 
このパートにおける検察側の主張は、サンドラにとって不利に働く要素を都合よく切り取った〝状況証拠〟である。しかしサンドラの弁護士バンサンが「問題は事実ではない。(サンドラが)人の目にどう映るかだ」と語るように、えてして物事の真偽は〝客観的な事実〟より〝主観的な思い込み〟によって決定づけられる。まさしく私たち観客も、見方ひとつでがらりと変わる〝真実〟なるものを、見極める目を試されることになる。
 
上記のふたつの論点では触れなかったが、本作にはもうひとりの主人公というくらい重要なキャラクターが登場する。夫婦の息子ダニエルだ。死体の発見者でもあるダニエルは、母親による父親殺しの疑いをめぐる裁判の行方を傍聴席で見つめ、自らも証人として法廷に立つ。トリエ監督はあまりにも過酷な現実に直面する多感な11歳の視点を、法廷内外で積極的に取り入れ、映画に繊細なスリルと情感を吹き込んだ。
 
また本作は、昨年のカンヌにて最も優秀な演技を見せた犬に与えられるパルムドッグ賞を受賞した。劇中にはボーダーコリー犬スヌープの視点も盛り込まれており、この物言わぬ犬が終盤に披露するあっと驚く熱演には誰もが言葉を失うだろう。
 
かくして不審死事件における〝落下〟という現象を、崩れ落ちていく人間関係のメタファーのように表現した本作は、2時間32分の長尺ながらダレ場は一切なし。破格の傑作ミステリーを、ぜひご覧あれ。

「落下の解剖学」は全国公開中。

ライター
高橋諭治

高橋諭治

たかはし・ゆじ 純真な少年時代に恐怖映画を見すぎて、人生を踏み外した映画ライター。毎日新聞「シネマの週末」、映画.com、劇場パンフレットなどに寄稿しながら、世界中の謎めいた映画、恐ろしい映画と日々格闘している。