「悪は存在しない」 ©2023NEOPA Fictive

「悪は存在しない」 ©2023NEOPA Fictive

2024.4.26

この1本:「悪は存在しない」 森に問う対話の可能性

毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)、屋代尚則(屋)、坂本高志(坂)。

濱口竜介監督の映画は、〝耳で見る〟ものだ。登場人物は平板な口調で含蓄のあるセリフを語る。感情より先に言葉がある。だから観客は、まず聞くことに集中する。本作の主人公、巧を演じた大美賀均は演技経験のない助監督だったそうだが、その声とたたずまいに魅入られ、耳を傾けてしまうのだ。

巧は長野県の山間で娘の花(西川玲)を一人で育てている。無駄なことは口にしない。森を知り尽くし、人と自然の間にいるようで頼りになる。しかし表情は乏しく、つかみどころがない。地域に東京の芸能事務所によるグランピング場建設計画が持ち上がり、住民への説明会が開かれた。事務所代表の高橋(小坂竜士)と薫(渋谷采郁)は、計画のずさんさを指摘され立ち往生する。

密度の高い説明会の討論場面は、前半の山場だ。高橋は住民の疑念に「貴重なご意見」と紋切り型の対応しかしない。それでも巧は理詰めで冷静で、説明会はののしり合いには至らず、対話によって歩み寄る可能性を感じさせるのだ。

しかし新型コロナ対策の補助金ありきで立案した事務所社長は、高橋と薫に巧を利用して住民を懐柔せよと命じる。開発と環境のバランス、資本主義の横暴といった主題が深まるかと思いきや、大きく転調する。

1人で森に入った花が行方不明になり、高橋と薫も捜索に加わった。森では対話はなくなり、最終章で言葉は消えて幻想的な情景が示される。濱口監督はこれまでも、説明不能な衝動を描いてきたが、巧の行動はことさら不可解だ。観客を突き放すようでもあり、物言わぬ自然との対話は可能かと問うようでもある。

濱口監督の前作「ドライブ・マイ・カー」で音楽を担当した石橋英子のライブ用映像として始まった作品だという。そのせいか、音や声がいっそう際立っている。ベネチア国際映画祭で審査員大賞(銀獅子賞)。1時間46分。東京・Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下ほか。大阪・シネヌーヴォ(5月4日から)など全国でも順次公開。(勝)

ここに注目

巧(=地元の人々)と高橋(=グランピング施設)は対立しているようで、実は変化や歩み寄りの余地がある。地元説明会や東京の事務所での会話からそれは明らか。それに比して、倒木や鹿の死骸まで抱く森には揺るぎない自然のことわりがあり、人間はその中でしか生きられない。伐採時の金属音や狩猟の銃声に対し、静かに存在する動物の足跡や鳴かない鹿でさえも、声を上げているようだ。序盤と終盤の木々のショットに地の底から湧き出たような重層的な音楽が響く。音が映像を彩っている。(鈴)

異論あり

実験的なフィクションやドキュメンタリー、自主製作から商業映画まで、多様な形態の映画作りを実践してきた濱口監督。新たな試みのもとで完成した本作は、ただそこに存在する自然を詩的に捉えた映像美が素晴らしく、住民説明会が紛糾するスリリングな描写にも引き込まれる。ところが映画の視点が芸能事務所側に移ったあたりからドラマが迷走し焦点がどんどん曖昧になっていく。その摩訶(まか)不思議な展開と、かなり唐突感のある結末をどう受けとめるべきか。けむに巻かれたようで想像力が働かなかった。(諭)

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