第76回毎日映画コンクール 田中絹代賞 宮本信子

第76回毎日映画コンクール 田中絹代賞 宮本信子

2022.3.03

田中絹代賞 宮本信子 「もう少しがんばれ」と言われた気がします

日本映画大賞に「ドライブ・マイ・カー」

男優主演賞 佐藤健「護られなかった者たちへ」
女優主演賞 尾野真千子「茜色に焼かれる」


第76回毎日映画コンクールの受賞作・受賞者が決まりました。2021年を代表する顔ぶれが並んでいます。受賞者インタビューを順次掲載。
1946年、日本映画復興を期して始まった映画賞。作品、俳優、スタッフ、ドキュメンタリー、アニメーションの各部門で、すぐれた作品と映画人を顕彰しています。

ひとしねま

ひとシネマ編集部

田中絹代の功績を受け継ぐ女優に「長い間続けてこられて幸せ」


映画黎明(れいめい)期にアイドル的スターとなり、1970年代まで息長くスクリーンに登場し続けた田中絹代。監督としても6本の作品を残し、日本映画史に名を刻んでいる。毎日映コンはその功績を受け継ぐ現役の女優に、田中絹代賞を贈っている。
 
37人目の受賞者は、宮本信子だ。表彰式では「もういいかしらと思うこともあったんですが、この賞で、田中絹代さんから『がんばりなさい』とおっしゃっていただいた気がします。もう少しがんばります」とあいさつした。
 
「この年でいただけるとは思ってなくて、びっくりしました。自分のペースで、好きな仕事を長い間続けてこられたのは幸せだと思います」。2021年は山田洋次監督の「キネマの神様」で、沢田研二演じる元映画助監督ゴウの妻淑子を演じた。山田組は「男はつらいよ 純情篇」以来、50年ぶり。

「キネマの神様」 50年ぶりの山田洋次組

「50年ぶりなんてなかなかありませんから、うれしかった。思わず監督とハグしました。最初はスタジオで雪のシーンだったんですが、セットの中に降る雪に感動しました。匂いまで伝わってくるようで、これは映画だと。『男はつらいよ』の山田組はピリピリ感がすごかった。監督も若かったし。今度は年も取ってるから、お互いに元気で良かったという感じです。山田組はリテークが多くて、今回も何度も階段を上り下りしたんですけど、監督が『悪いねえ何度もやらせて』と言ったら、みんなびっくりしてた。山田監督が謝ったって」
 
20年3月、撮影開始直前だった主演の志村けんが、新型コロナウイルス感染による肺炎で死去。山田監督は脚本を書き直し、沢田を代役に起用した。
「撮影所に行く時は景色がグレーに見えましたね。大変な時代になったなと。キネマの神様が守ってくれると信じてたし、監督の下、一致団結したと感じました。静かに終わってよかったと、しみじみ。コロナ禍も取り入れて、意味のある映画になった。参加して本当に良かった」
 

©2021「キネマの神様」製作委員会

スクリーンに名前夢みて

おじが東映系の映画館を2館経営していて、小学校に入る前から入り浸った。母親も、買い物に出たまま映画館に行ってしまうほどの映画好き。「東映の新作が毎週かかるんですが、最初のクレジットロールで『編集 宮本信太郎』って大きく出るんです。私の名前と『宮本信』まで一緒で、自分が出たらその後が『子』になるんだと思ってました。映画のスクリーンが好きなんですよ。ずっと後、『お葬式』で『宮本信子』と出て、やったーと思いました」
 
高校を卒業し、女優を目指して上京。親戚筋の俳優、千秋実を頼って付き人となり、劇団に籍を置いた。しかし安保闘争の激しい時代で、左翼系の劇団は政治運動に忙しく演劇どころではない。その中で、大島渚監督の「日本春歌考」やNHKのドラマに出演、共演者として出会ったのが、後の夫、伊丹十三である。
 
「宮本信子を大きく育ててくれた監督だと思う。知り合って間もない頃に、伊丹さんから『君は良い役者なのに、どうして良い仕事が来ないんだろうね』と言ってもらってたんですけど、場がないとできませんよね。私は、伊丹さんは大監督だった万作の子だから、映画を一本でも作ってもらいたいと思ってました。それがピタッと合ったのが、私の父の葬儀から着想した『お葬式』でした。万作と父が、私たちにプレゼントしてくれたという思いが、すごくありました」
 


ジーナ・ローランズとジョン・カサベテスのごとく

1984年、伊丹の監督デビュー作「お葬式」以来、伊丹映画のヒロインとなり、俳優として大成した。「私の柄で、この個性で、映画に出て、しかも主演なんて考えられませんでした。伊丹監督は次から次へと、これならどうだ、これはできるかと役を用意する。私はそれに応えて絞られて、やっていきました。1人の女優のためにずっと映画を作るなんて、僕とジョン・カサベテスだけだよねって言ってましたよ」。パートナーのジーナ・ローランズを撮り続けた、米国のインディペンデント監督である。
 
撮影現場での要求は、スタッフが「また女優いじめが始まった」と言うほど厳しかった。
「どこが悪いんだろと思うんですけど、なんか気に入らない。毎回、これでダメだったら次はないと思っていた。女房だからとか関係ないですから、とても鍛えられた」。とはいえ、昼食休憩には宮本の部屋に来て、一緒に食事をしたがった。「皆さん見てるからやめてって言っても、来ちゃうんです。孤独ですから、監督って」
 

歌もライフワークに でも「小文字で」

もう一つ、ライフワークとなったのが歌だ。勧められてステージに立つと、気持ちが良かった。コンサートも毎年続け、すでに20年以上。「楽しいんです。1人で歌って、拍手をいっぱいいただいて。でも下手だって分かってますよ。女優は大文字でいいけど、歌手は小文字でお願いしますって言ってるんです。ちっちゃいけど、ちょっとあるんです」
 
伊丹の死後、10年ほど映画から遠ざかり、舞台に活動の場を移した時期があった。「伊丹プロダクションとスクリーンに出てきそうで、映画館にも行けなかった」。2007年、「眉山―びざん―」でスクリーンに復帰。「お話をいただいて、絶対出演したいと思いました。新人のつもりでやろうと決めて、楽しかったです」。以来、仕事を選びながら、演じ続けている。「いつ何が来てもいいように、健康でいないといけないと思うんですね。年齢にあんまり関係なく、年に応じた役がある、こんなにいい仕事はないと思います」
 

ライター
ひとしねま

ひとシネマ編集部

ひとシネマ編集部

カメラマン
ひとしねま

前田梨里子

毎日新聞写真部カメラマン