リオ・ブラボー

リオ・ブラボー

2022.7.03

半世紀隔てた2人の「P・ウィーラー」 「リオ・ブラボー」:勝手に2本立て

毎回、勝手に〝2本立て〟形式で映画を並べてご紹介する。共通項といってもさまざまだが、本連載で作品を結びつけるのは〝ディテール〟である。ある映画を見て、無関係な作品の似ている場面を思い出す──そんな意義のないたのしさを大事にしたい。また、未知の併映作への思いがけぬ熱狂、再見がもたらす新鮮な驚きなど、2本立て特有の幸福な体験を呼び起こしたいという思惑もある。同じ上映に参加する気持ちで、ぜひ組み合わせを試していただけたらうれしい。

髙橋佑弥

髙橋佑弥

気分が沈んだときは、映画に限る。とはいっても、とくに映画が見たいわけではない。いやむしろ、なにもしたくないというのが正直なところだ。喜ばしくない出来事も、あるていど予想できる場合は心の受け身もとれようが、不意に予期せぬ無神経さにさらされると想像以上にこたえることもある。その結果、いつも暇さえあればしているあれやこれやが、手につかない──読書はおろか、いつもあれほど控えようと言い聞かせながら果たせないSNSさえ。そんなとき、重い腰を上げて映画だけは見ることにしている。
 

久しぶりに見直してみると

もちろん、集中などできはしない。映画が始まっても、頭の中はもやが充満している。目は開いているが、眼前は見えていないと言っていい。けれど、映画のいいところは、ひとまずは〝受動的〟体験として始まるところにある。読書はページをめくる手が止まってしまうし、散歩はかえって消沈に拍車をかけることもある。しかし映画は、観客のコンディションなどお構いなしに、よどみなく進み続ける。そこがいい。たとえ、心ここにあらずでぼんやり眺め始めたのだとしても、推移する画面をひたすら目にしているうち、気づけばそちらに意識を引っ張られていることも少なくない。
 
そんなこんなで、久しぶりに「リオ・ブラボー」を見たのだった。巨匠ハワード・ホークスが、当時4年ほどのブランクを経て映画界に舞い戻り撮りあげた後期の代表作で、あるひとつの町を舞台に、投獄された男を逃がすため町を占拠した殺し屋集団と対峙(たいじ)する保安官らを描いている。
 
ただ今回は、言わずと知れたこの傑作を改めて紹介するつもりはない。あくまで今回の眼目は、直近の個人的再見〝体験〟のほうにある。未見の方は、いますぐ見てみてほしいというほかない。約140分と少々長尺ではあるし、じっさい話運びは緩慢の感もあるのだが、そここそがほかでもない本作の美点でもある。
 

「セインツー約束の果てー」に同じ名前が

あまりに頻繁に、じっくりと、なめるように描かれる、町の目抜き通りを主人公らが歩く場面のぜいたくさ。特段、劇的なことが起こるわけでもなく、気の利いたせりふの応酬があるわけでもなく、一見、単に男が並び歩いているだけの時間ではあるのだが、この〝時間〟こそが言葉少なに人物たちの関係性を刻んでいるように思える。
 
さて、今回見直してみて思い出したのは、前回見たときのことだ。当時、私はデビッド・ロウリー──本連載第2回でも取り上げた──のことばかり考えていて、その合間に本作を見たのだったが、途中ではたと気がついたことがあったのだ。ワード・ボンド演じる幌(ほろ)馬車隊長の「パット・ウィーラー」という見覚えのある名前──これは、ロウリーの監督作「セインツ-約束の果て-」でベン・フォスターが演じている保安官の名前(厳密には「パトリック・ウィーラー」)と同じではあるまいか?
 
この時点ではあくまで勘の範疇(はんちゅう)であったが、調べてみると確かに同じで、英語でも日本語でも気づいた人がすでに指摘しているのを見つけた。思えば「セインツ」公開当時、蓮實重彦の映画時評で取り上げられたさいに「私信によれば、ロウリーはハワード・ホークスの大ファンだという」と書かれてもいたのだし、かつてロウリー自身のブログ──監督デビュー前のあれこれ、撮影日誌、見た映画の感想などが記録されており愛読していたが、当然閉鎖され、いまはもうない──でも「WEEKLY INTAKE」と題して頻繁に更新される週ごとの映画鑑賞記録リストでも一時期ハワード・ホークス監督作は頻出していたから、敬愛の印に同名の登場人物を出すという〝目くばせ〟をしたのだろうと合点したのだった。
 

ロウリーの幸運な偶然

ところで、当連載では影響関係にある2本は取り上げないことにしている──「勝手に」としているように、無関係な作品を半ば無理矢理並べて紹介するという趣旨なのだから。ゆえに、本来であれば今回の2本もルール上はご法度である。しかし、今回「リオ・ブラボー」を見て「なぜ、ロウリーは〝P・ウィーラー〟を保安官の名にしたのか」という疑問が浮かび、見つついろいろと考えていた。
 
ワード・ボンド演じるウィーラーは、主人公の友人であり善人ではあるが、窮地に助力を申し出て断られるという意味で、力不足な人物であり、最終的には銃弾に倒れることになる。いっぽう「セインツ」の保安官はひとまず有能といえる人物であり、準主役の立ち位置で、死を迎えたりもしない。あくまで〝オマージュ〟なのだから、意味などないという可能性もあり得るが、なんとなく釈然としないので、結局、久しぶりに結論が見いだせるまであれこれ調べてみたところ、答えはオランダの映画情報サイトにあった。「セインツ」公開当時のインタビューで、ほかでもないロウリー自身が「幸運な偶然で、俳優が撮影時に思いついた名」と打ち明けていたのだ。意図されたものでなく、図らずも名前が結びついたということになる……そして、今回紹介のはこびとなった。
 
いつ見ても作品自体は変わらないが、見る側はつど違った状態にあるのだから、体験もまた毎回異なるものになる。そして、それが作品とひも付いて記憶されていく。気落ちした私が何の気なしに見直した「リオ・ブラボー」は以後、「セインツ」についての新しい個人的な気づきの作品として思い出されることになるだろう。そして、この件を調べ終えたころには、あれほど気に掛かっていた嫌な事柄も、もはやどうでもよいものになっていた。
 
「リオ・ブラボー」「セインツ-約束の果て-」ともにU-NEXTで見放題配信中。

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ライター
髙橋佑弥

髙橋佑弥

たかはし・ゆうや 1997年生。映画文筆。「SFマガジン」「映画秘宝」(および「別冊映画秘宝」)「キネマ旬報」などに寄稿。ときどき映画本書評も。「ザ・シネマメンバーズ」webサイトにて「映画の思考徘徊」連載中。共著「『百合映画』完全ガイド」(星海社新書)。嫌いなものは逆張り。