誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
2022.6.19
インタビュー:映画「グラン・ブルー」再公開から30年。仕掛け人に聞く、大ヒットの舞台裏!
今日は、1992年6月20日「グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版」がシネセゾン渋谷で公開されてちょうど30年となります。同作はクラシックスとしては異例の連日の立ち見により、全国に公開が広がり、一部に熱狂的な人気を得ました。
当時彼らはグラン・ブルー・ジェネラシオンと言われており、僕もその一人。東京で同作を見てから福岡に帰省した際、わざわざ佐賀県唐津市にまで行ってジャック・マイヨールがイルカに初めて出会ったと言われている七ツ釜などの聖地巡礼をしたほどでした。
そして30年がたった今でも、パッケージやサブスクリプションでの同作は見る者の心を強く揺さぶり続けています。
実は同作、その4年前の88年8月に20世紀フォックスの配給で公開となり、興行的にはかなりの苦戦を強いられたという意外な事実があることをご存じですか?
そんな惨敗のあと、再公開により30年の時を経ても輝きを失わない「グラン・ブルー」伝説のそのはじまりを聞いてみたい――。
元日本ヘラルド映画(現在KADOKAWA)で同映画の買い付けと宣伝を行った高須正道さん(MG LAB代表取締役)の元を訪れました。
もう一度劇場で公開したい! そんな「思い」がきっかけ
以前、ヘラルド映画の新聞広告の営業担当をしていた僕は、お互いの近況報告や共通の知人の動向をひとしきり話した後、本題に入りました。
――当時日本ヘラルド映画のどんな部署にいたのですか。
高須 ヘラルドは200本以上の名作の国内配給権を持っていて銀座文化 (現シネスイッチ銀座)を中心に番組を組んで上映していました。オードリー・ヘプバーンの特集や、今リバイバルで多くの人に見られている「ひまわり」など、映画史に残るクラシックス作品です。
その担当の映画事業部におりました。
――当時はどんな仕事をやっていましたか。
高須 85年に入社し宣伝部を経て、90年代に入って銀座文化だけでなく、シネ・ヴィヴァン六本木などにもクラシックス作品の番組を編成するようになりました。
シネ・ヴィヴァン六本木ではフランスの映画監督ジャック・タチの特集や「ナック」のレイトショーがヒットしたのが思い出深いです。
――「グラン・ブルー」との出会いは?
高須 88年の公開当時に見て、冒頭シーンから引き込まれました。エンゾ(ジャン・レノ)がガタガタのチンクエチェントに乗って登場するシーンからジョアンナ(ロザンナ・アークエット)の最後のセリフまで。ストーリーはハリウッド映画とは少し違って全体的に控えめだけど、90年代前後の時代の気分とマッチしていました。でもヒットしなかった。とても、もったいないなあと思っていました。
その後、ある程度作品の選定を任されるようになり、とにかく新しいことにチャレンジしたかったんです。この作品をもう一度劇場で公開したらヒットするんじゃないかという「思い」にトライしたかった。会社もそれにOKを出してくれました。
そして20世紀フォックスに、ヘラルド映画のクラシックスに加えられないかと問い合わせてもらったんです。映像と音楽に圧倒された思い出から、スクリーンで見るのにふさわしい作品だと思っていましたから……。するとOKが出たのです。
実は配給した「グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版」以外にも同映画にはいくつかのバージョンが存在していたことも分かりました。
チャレンジしたからこそ生まれた、「人と熱」の交差点
――特徴のある配給宣伝の思い出はありますか。
高須 クラシックス作品ですが、とにかく渋谷で公開したくて、劇場営業担当に無理をお願いしました。すると、シネセゾン渋谷が6月から夏興行までの5週間が取れるという話を持ってきてくれたのです。
――持ってますね! 当時はミニシアターブームでシネマライズなど個性豊かな番組を渋谷で競ってかけていましたね。いわゆる渋谷系のムーブメントも現れてきました。
高須 ただの名画のリバイバル上映とは違うやり方にチャレンジしたかった。その中でも新しいことをやってみたかった。
――具体的には?
高須 日本語の一切ないポスターは好評でした。また、大判のパンフレットはとにかくよく売れました。
――他には!?
高須 この映画はシネマスコープサイズだったのですが、東京都内でシネスコのスクリーンが一番大きい劇場で先行上映をやりたい!との言葉に、劇場営業の部長が新宿ミラノ座での貸館を決めてきてくれました。
――ブロックブッキングのシステムが根強く残っていた当時、セゾンでかける番組をよく東急系の劇場が、先行上映とはいえ、かけさせてくれましたね。
高須 そうですね。ただ貸館興行だったので、券売、もぎり、会場整理などを他の部署も含めたヘラルドの社員たちが率先して手伝ってくれました。結果1000人以上のファンが集まり、東急レクリエーションさんからは劇場興行にしておけば良かったと言われました(笑い)。
――面白いことをやっている!と社内の人が乗ってくれたのですね。昔ヘラルド映画に通っていたのでそのへんの雰囲気が伝わってきますね。
高須 社内ももちろん乗ってくれました。面白いということに積極的に協力してくれる社風でした。
話は前後しますが、その熱は社外にも伝わり、当時、フリーの編集者・石熊勝己さんや、ラジオの仕事をしていた高橋直樹さんが応援団になってくれました。石熊さんは主な出演者のインタビューのためにアメリカまで行ってくださり、パンフレットの編集と雑誌ブルータスで特集を組んでくれました。高橋さんはリュック・ベッソン監督をわざわざフランスまで追いかけてくれて、TOKYO FMで特番をオンエアしてくれたのです。
――当時は今では考えられないくらいに、雑誌やラジオが大きな影響力を持っていましたからね。
高須 それだけでなく、偶然にもキリンシーグラムのHipsというウイスキーの新商品のキャラクターがジャン・レノで大量にテレビCMが流れたのです。
88年に「グラン・ブルー」を見て、この映画を好きになった人たちが一点に集まった感じがしました。
――もう、ヒットするしかない!という状況を作りましたね。
高須 一人では何もできません。社内社外を問わず応援してくれた人々の集合体がヒットを生んだと思っています。
――結果、連日の満員だったとのこと。
高須 うれしい悲鳴でした。シネセゾン渋谷は5週で次の映画が始まってしまう。そこでまた、劇場営業担当がその後の劇場として歌舞伎町東映、下高井戸シネマ、銀座文化とタスキをつなぐように決めてくれました。
――当時は「ニュー・シネマ・パラダイス」や「ブラス!」など1館でロングランという興行が多かったように記憶していますが珍しいですね。
高須 結果として1億円以上の興行収入をあげました。
チーム一丸で行動し、「思い」を最大化する環境があった
――当時を振り返って、成功の最大の理由は何だったと思いますか。
高須 作品の良さはもちろんですが、ヘラルドの社風も良かった。仕掛ける人と、それをちゃんと実行する人、ディフェンスとオフェンスのバランスがちゃんと取れていたんです。もちろん運も良かった。
――今の仕事にもつながっていますか。
高須 KADOKAWAに移り、ムビチケの立ち上げに関わった後、独立して興行会社のチケッティングシステムの開発と運用の仕事に携わっています。人のやっていないことをやれ、というヘラルドの教えが今につながっていると思っています。
――あれから30年たっていかがですか。
高須 当時は個人の「思い」のエネルギーを受け入れる組織・環境があったが、今は「思い」があるのに受け入れられているのかなあ……。
「先駆者たれ」という思いが「グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版」をヒットさせたと思っています。
――ありがとうございました。高須さんのお話を聞いていると当時のヘラルドの懐かしい人たちの顔が浮かんできました。
高須 今でも連絡を取り合っています。コロナウイルス禍で集まることが減ったのは残念ですが。
――当時のはじまりの熱を感じられるお話、ありがとうございました!
個人の「思い」をチームが実現した!
話を聞いていて劇中でジャックやエンゾたちがスパゲティをみんなで囲んで食べているシーンを思い出しました。
皆様もぜひとも今週末ビデオグラムやサブスクリプションサービスにて「グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版」をご鑑賞ください。
ところで、高須さんは新たな「クラシックス」を配給するという。
7月22日渋谷ホワイトシネクイント他公開「パトニー・スウォープ -デジタル・レストア・バージョンー」。
監督は昨年亡くなったロバート・ダウニー。
息子でハリウッドを代表する俳優ロバート・ダウニーJr.が「アメリカ映画界における偉大なる真の異端児だった」と評した彼の69年の映画。
これもまた公開が楽しみな作品です。
追伸: 家にあった英和辞典でheraldという言葉を引いてみると「1伝令官、布告者、報道官、使者、先駆者、先触れ 2紋章院主任、式部官、告知[布告]する、先触れ[予告]する、先導[案内]する」と書いてありました。