音楽映画は魂の音楽祭である。そう定義してどしどし音楽映画取りあげていきます。夏だけでない、年中無休の音楽祭、シネマ・ソニックが始まります。
2024.2.10
「トーキング・ヘッズの頃の自分は小さな暴君だった」「ストップ・メイキング・センス4Kレストア」が彼らにもたらした<ユートピア>とは
アメリカ本国から遅れること5カ月弱、ついに「ストップ・メイキング・センス 4kレストア」が日本でも公開された。この40年も前のコンサート映画に、往年のファンはもとより、トーキング・ヘッズというバンドに初めて触れた若い人たちまでも大いに盛り上がっている様子がうかがえて、オールドファンとしてはとてもうれしい。僕自身もIMAXで一度見たが(もう何回かは行きたい)、オリジナルネガから4Kスキャン&修復(フィルム上の傷やゴミをデジタル技術で消すわけだ)された映像のヌケの良さによって自分もステージに立っているかのような気持ちになるし、メンバーの一人ジェリー・ハリスンらによって新たにリミックスされたサウンドも、過去の上映やソフトとは別次元のものに進化していてビックリした。この時のバンドはオリジナルメンバーの4人に加えて、多くのゲストを加えた大所帯だが、今回のミックスなら、どのフレーズを誰が弾いているのかが手に取るように分かり、そのことがライブ感を2倍にも3倍にもアップしてくれている。デヴィッド・バーンがこの映画の代名詞とも言えるビッグスーツを着用したあたりから、もう居ても立ってもいられなくなり、人目につかない通路の陰で僕は一人、踊っていた。
「アメリカン・ユートピア」後押し
この作品が今、4K修復されて再公開されたのは、40周年という節目を記念するという理由も大きいだろうが、2020年に公開された(日本公開はその翌年)デヴィッド・バーンのコンサート映画「アメリカン・ユートピア」が、誰も予想しなかったヒットになったことが後押しになったはずだ。その映画が公開された時、観客や批評家の論調の多くは「『ストップ・メイキング・センス』のデヴィッド・バーンが、久しぶりにまたやった!」「やっぱりバーン、すごい!」というものだったが、そんな世の中の盛り上がりを横目に見ていた僕は、「おいおい、君たち、少々現金なんじゃないか? 『ストップ〜』から何十年たってると思ってるんだ? その間にだってバーンはいろいろやっていたんだが?」とつぶやいていた。とは言え、世の中がそんなふうに受け止めたのも無理はない。「アメリカン〜」が話題になるまで、彼の活動が派手にピックアップされる機会はほとんどなかったのだから。
バーンの振る舞いはメンバーの悩みの種
そもそもトーキング・ヘッズは、ロードアイランド・スクール・オブ・デザインという美術学校に通っていたドラムのクリス・フランツと、その学校になんとなく忍び込んでいたデヴィッド・バーン(歌とギター)が組んだバンド、ジ・アーティスティックス(ダサい名前だ)が前身であり、彼らは卒業後にニューヨークに出て、やはり同じ学校卒でクリスの彼女だったティナ・ウェイマスがベースを弾き始め(2人は後に結婚する)、そこにハーバード大学で建築を学んでいた、元モダン・ラヴァーズのジェリー・ハリスン(ギター、キーボード)が加わって、4ピース・バンドとして完成した。だが、かなり初期の段階から、人付き合いが苦手で自意識過剰なバーンの振る舞いは他のバンドメンバーの悩みの種であり、「ストップ〜」の頃とて、ステージの上でこそ全員が一体となって最高のグルーブを奏でるけれど、その外ではストレスフルな関係が続いていたようだ。その緊張に、トム・トム・クラブの大ヒットが油を注いだ。「ストップ〜」の中でも箸休め的に一曲演奏されるのが、クリスとティナ主導のユニット、トム・トム・クラブの「悪魔のラヴ・ソング」である。その当時、この曲も、アルバム「おしゃべり魔女」も、それまでのどのトーキング・ヘッズの作品も成し遂げていないヒットを記録することになってしまった(「悪魔のラヴ・ソング」の演奏は、バーンがビッグスーツに着替えるための時間稼ぎという必然性もあったが、当時のファンのニーズを満たす意味もあったわけだ。この曲の印象的なリフは、その後マライア・キャリーもサンプリングして使った)。自分抜きでのこの成功が、バーンのプライドを大いに傷つけたことは想像に難くない。あまり意識されないことかもしれないが、「ストップ〜」という映画は、実はトーキング・ヘッズの最後のツアーの模様を収めたものだ。彼らはその後、3枚のアルバムを出して解散するのだが、それらをプロモーションするためのコンサートツアーはなかった。たまにレコーディングで顔を合わせるのが精いっぱいで、長期間一緒に出かけられるような関係には戻れなかったのだろう。
バーンの姿を困惑しながら見つめるしかなかった
「ストップ〜」の後、バーンが再びツアーに出て聴衆の前に姿を現したのは、1989年10月、思いっきり中南米の音楽に接近した自身のソロアルバム「レイ・モモ」をリリースした時であり(トーキング・ヘッズはまだ解散していなかった)、そのツアーは日本からスタートした。映画「ストップ〜」に心をわしづかみにされながら、トーキング・ヘッズのライブに触れる機会を持たなかった遅れてきた世代は、とりあえずデヴィッド・バーンが生で見られるなら、と心躍らせて渋谷公会堂に参集したわけだが、その初公演が行われたのは、アメリカでアルバムが発売されるのとまったく同じタイミングであり、つまり、観客にとってはほぼ全てがそこで初めて聴く曲ばかり。しかも、いわゆる〝ロック 〟のスタイルではなく、メキシコやブラジルのバイーア地方のミュージシャンが着ているような白装束の、大人数のパーカッションとホーン奏者をバックにオリジナルのラテンナンバーを歌うバーンの姿を困惑しながら見つめるしかなかった。それだけに、途中で一曲だけ演奏されたトーキング・ヘッズのナンバー「ミスター・ジョーンズ」の盛り上がりはハンパなかった。
「過去の人」になっていた
バンドの解散後、バーンは今日までに10枚ちょっとのアルバムを出しており、音楽活動はコンスタントに続けていた。しかし、「アメリカン・ユートピア」の前までは、いずれも大きな話題にもならず、「過去の人」になっていたという印象は否めない。音楽的には特に新しいものは打ち出せず(それはキャリアを重ねたミュージシャンには仕方のないことだ)、後年になるにしたがって、ブライアン・イーノとのまさかの再共演をはじめ(イーノはトーキング・ヘッズの音楽性を大いに飛躍させたプロデューサーだが、名盤「リメイン・イン・ライト」の時に、これを「トーキング・ヘッズ&ブライアン・イーノ」のクレジットでリリースしろと強く主張し、そのことからバンドと疎遠になっていた)、ファットボーイ・スリム、セイント・ヴィンセントらを頼り、コラボ作としてのアルバムを連発する。
「ストップ〜」非常な成功体験
この間、ツアーも続けていて、その間に2回もコンサート映画を作っている。一つはいまだDVDにすらなっていない「ビトウィーン・ザ・ティース」(93年)で、もう一つは「ライド・ライズ・ロウアー」(10年)。前者は「ストップ〜」と同様、純粋にコンサートを捉えたものでバーン自身が共同監督を務めた。後者はコンサートに加え、リハーサルの様子や、参加メンバーのインタビューを交えたドキュメンタリーの構成になっている。バーンにしてみれば、「ストップ〜」という映画が世に受け入れられたことは非常な成功体験として記憶されているので、自身のコンサートを映画として残すことへの欲求は常にあっただろうし、それらの前、トーキング・ヘッズ時代の86年に自身が監督・出演した劇映画「デヴィッド・バーンのトゥルー・ストーリー」が不発に終わったという悲しさもあっただろう。しかし、残念ながらこれらのコンサート映画もまた耳目を集めることはなかった。どちらの映画で取り上げられたツアーも来日公演はあり、内容は決して悪いものではなかったし、特に3人のダンサーをフィーチャーした後者のステージは、「アメリカン・ユートピア」の試作品と呼んでもいいもので、その後のセイント・ヴィンセントとのツアー(日本には来ていない)で、ステージを縦横無尽に動き回るブラスバンドを起用したことが発展して、あの「アメリカン・ユートピア」のやり方に結びついたのだった。
演奏者であると同時にダンサー
「アメリカン〜」はバーンが久々に自分だけの名義で18年にリリースした同名のアルバムのコンサートツアーとして始まったショーで、バーンはツアー前に「『ストップ~』以来の野心的なステージ」とけんでんした。通常は定位置に縛られているはずのドラムやキーボード奏者までもが楽器を可搬式にして、メンバー全員で常にステージ上を動き回る、つまり演奏者であると同時にダンサーでもあるようなパフォーマンスが大いなる人気を博し(これも残念ながら日本には来なかった)、ツアー終了後に、ニューヨークのブロードウェーの劇場のレジデンスとして、数カ月に及ぶ公演が続いた。そこで映画が撮影されたのはまだトランプ政権の時代であり、黒人が理不尽な殺され方をする事件も相次ぎ、「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は大事だ)」というスローガンが叫ばれていた頃だ。バーンがアルバムで歌ったのは、そうした白人至上主義の右翼的な世の空気の中で、そもそも移民国家であるアメリカの多様性を称揚するものだったし(バーンの出身はスコットランドだ)、コンサートのメンバーもその考えを体現するために多様なキャラクターで構成された。そしてこの映画の監督に数々の傑作、問題作を生み出してきた黒人のスパイク・リーが起用されたのは、いかにもうなずける話だった。
デヴィッド・バーンになれたらなあ
その映画を見た後に、今、4Kレストア版の「ストップ〜」のバーンを改めて見直すと、とにかく若いし、「イキってる」という言葉がこれほどふさわしい人もいない。どの曲にもすさまじいテンションで臨んでいるし、一曲一曲に何か目新しいアトラクションを用意しようというアイデアがあふれている。こんなに体力を消費して、ステージを走り回ったり、駆け足のまね事をしたりする必要があったのか、とも思う(今回のバージョンを見直したバーン自身も同じような感想を抱いたようだ)。しかしそれだけに映画の観客は彼の一挙手一投足から目が離せない。今回の4K版が公開される前、名画座などではこの映画のオールスタンディング上映が頻繁に行われており、そこでは映画でのバーンの動きをそっくりコピーして踊る人がたくさんいた。幼い頃に少年たちがウルトラマンや仮面ライダーになりたかったように、「デヴィッド・バーンになれたらなあ」と夢想する人がたくさんいたのだ。
いつも遠くを見ているような不思議な浮遊感
僕は97年に、音楽雑誌の仕事でバーンにインタビューしたことがある。痩せたスーパーマリオのようにかわいいオーバーオールを着て現れた短髪の彼は、ひげそりに失敗したと言って、顎(あご)にディズニーの「101匹わんちゃん」の絵柄の入ったばんそうこうを貼っており、僕は「さすがはデヴィッド・バーンだなあ」と変な感心の仕方をした。ひとつひとつの質問に丁寧に答えてくれる様は、「ストップ〜」の中での彼のように、エキセントリックというわけでもないし、格別に愛想が悪いというわけでもない。ただ、いつも遠くを見ているような不思議な浮遊感は漂わせていて、いかにもアーティスト、という感じだった。その印象があるだけに、柔和な表情でしっかりと社会的なメッセージを観客に語りかける「アメリカン〜」の中での彼には、何かつき物の落ちたようなすがすがしさを感じ、ずいぶん変わったな、と思った。もうビッグスーツも赤い帽子も必要なく、他のみんなとまったく同じ格好で歌い、踊りたいと思う人がそこにいた。
自分は小さな暴君だった
今回の4Kレストア版の公開で、本編の仕上がりの良さ以上に僕が驚いたのは、カナダのトロント映画祭でのこの映画のお披露目の席で、トーキング・ヘッズの4人のメンバーが21年ぶりにそろい、スパイク・リーを相手にトークを行ったことだった。それどころか、その後のアメリカでの公開時にも、4人一緒にいくつかの劇場で舞台あいさつやQ&Aを行った。バンド解散後もクリス&ティナ夫妻とバーンの間の確執は深刻で(ジェリーは比較的、中立の立場だったから、CDのリマスターや、今回の「ストップ〜」の音のリミックスは彼の役目だった)、クリスは自分の生い立ちからトーキング・ヘッズの解散までを書いた回想録「Remain in Love」(未訳)の中でバーンの過去の数々の行いを非難していたし、ブロードウェーで「アメリカン〜」が上演された時も「招待状ひとつ寄越しゃしない」と文句を言っていた。クリスはバーンにトーキング・ヘッズの再結成を持ちかけたこともあるのだが、バーンは頑としてそれを受け付けなかったという。それくらい、修復不可能の関係に陥っていた彼らが、どうやら過去を水に流したようなのだ。バーンはインタビューで「トーキング・ヘッズの頃の自分は小さな暴君だった」と反省の言葉を述べており(多分「小さく」はなかったのだろうと思うが)、ジェリーも「『ストップ〜』のレストアと再上映が、メンバー全員にとっての癒やしになった」と発言している。結局、彼らは自分たち自身で作り上げたこの偉大な映画に救われることになったのだ。
この流れに乗じて、既に大手の会社が再結成コンサートをやらないかと巨額のオファーを持ちかけたらしいが、彼らは断ったようだ。しかし、ことによると、アルバムの一枚くらいは作ってくれるんじゃないかと、あまり期待しすぎないようにしながら、ほんのりと待ちわびている自分がいる。