1966年10月6日毎日新聞東京本社の新社屋になった、パレスサイドビルが竣工

1966年10月6日毎日新聞東京本社の新社屋になった、パレスサイドビルが竣工

2022.6.29

「瓦版」に重ねる、映画製作の背景にあるもの

国際交流基金が選んだ世界の映画7人の1人である洪氏。海外で日本映画の普及に精力的に活動している同氏に、「芸術性と商業性が調和した世界中の新しい日本映画」のために、日本の映画界が取り組むべき行動を提案してもらいます。

筆者:

洪相鉉

洪相鉉

「新聞社で映画を作るの?」
「そこまで驚くことか」
「いや、普段マスコミだと嘘つきのイメージが強いからね」

ホンㆍサンスの映画『次の朝は他人』の舞台でロケまで行われた「小説」という名のバーで「真夜中のジャパンㆍフィルムゼミ」が始まった。映画祭の最中の全州。今年の雰囲気はこの2年間とは違っていた。ある程度海外ゲストの招待ができ、「フェスティバル」という意味がよみがえったようである。アメリカを代表する実験映画監督やヴィラ・メディチ国際映画祭委員長、サンㆍセバスティアン国際映画祭にかかわっている評論家、そしてベネチア国際映画祭のベニスデイズセクションの選定委員など、国際コンペの審査委員や出品作の監督が集まっていた。 筆者は副執行委員長補佐のアドバイザーだったが、その日の公式スケジュールは終わっていたので、お互いの肩書はどうでもよかった。

 「型破り」は進化か、あるいは芸術か

とにかく彼らには筆者が少し不思議に見えたようだ。 国籍は韓国だが日本から来たと言うし、韓国系アメリカ人の監督が演出したコリン・ファレル主演の開幕作と関係者として招かれたNetflixドラマ『アンブレラㆍアカデミー』の韓国系アメリカ人俳優のジャスティンㆍHㆍミンなど、絶好調の韓国映画の勢いとは無縁で、「是枝裕和や濱口竜介が頑張ってはいるが、過去に比べると何か寂しい感じ」(当時の誰かのコメントを引用)の日本映画界の者だったからだろう。 ここで本格的に彼らの好奇心を刺激したのは、今年の2月から筆者がコラムを連載中の映画専門のバーティカルサイト《ひとシネマ》の運営以外にも、映画賞(毎日映画コンクール)を主催し、50本以上の作品に製作出資までしてきた日本最古の新聞の「目新しい歩み」だった。
「PPLだらけの映画かな。 それとも権力志向的な?」
「違うよ」
憶測をきっぱり否定した筆者がフィルモグラフィーを並べると、座中の耳目が集まった。 死んだはずの人が蘇(よみがえ)ってくるという超常現象をめぐる美しくて悲しいファンタジー(『黄泉がえり』) 、完成度の高いディザスター映画(『日本沈没』)、実存する人物をモデルにしたヒューマンドラマ(『横道世之介』)と高い娯楽性や時事的意味まで際立つウエルメードSF(『図書館戦争』)、一時代の終わりを背景とする社会派スリラー(『64』)、フランス映画のような洗練感を漂わせる時代劇(『関ヶ原』)、さらに世代を超えて感性にアピールする本格メロドラマ(『糸』)もあった。ジャンルは違っても「ストーリーの完成度」という共通点がある作品群。 ちょうど上映会のQ&Aを終えて現れたアルゼンチン監督が、作品のクオリティーを安定的に維持するノウハウを知りたがっていた。

スクリーンの外にある情熱

筆者の見解を述べる前にワインを一口飲んだ時、一ツ橋の事務室の風景が浮上した。 コロナの影響で遅くなった《ひとシネマ》の仲間たちとの初対面。アイスブレーク(初対面の人同士が出会う時に、緊張をときほぐすための手法)は要らなかった。あいさつの後で会話を始めるやいなやみんな熱くなったから。トピックはもちろん「映画」だった。 向かい合った人々のキャリアもなかなかのレベルだった。 学芸部長を経て、現在は専門記者として映画を担当する人や長年映画製作を担当してきた人。 しかし、驚くべきことは誰も「仕事」として映画を扱っている感じが全くなかったことだ。 むしろフィルムスクール時代の同窓たちを思い出させるほどの情熱が感じられた。彼らとエンターテインメントであると同時にアートでもある映画のアイデンティティーと、これからの日本映画の生きる道について意見交換をしていたら、あっという間に2時間が過ぎていた。

充足した思いで街へ出た夕方。 ふと思った。 彼らの情熱はどこから来るのだろうか。 その瞬間、頭にひらめいた言葉は「瓦版」だった。 江戸時代に登場した「メディア」の嚆矢(こうし)。 時には風説を立てるといって軽視されていたが、形が変わっても消えたことはない。出来事や情報以外にも物語、すなわち、ストーリーを大衆に伝え、文字言語(小説)の時代から映像言語(映画)の時代に至るまで「文化」として享受してきた。一ツ橋の仲間たちも日本を代表する映画賞(毎日映画コンクール)の主催や物語の作り手のサポート、場合によっては映画製作に参加しながら自分たちも作り手になる組織の中で「創造的な体質」を身につけたのだろう。劣悪な産業環境に天災地変の被害まで重なっているWITHコロナ時代の日本映画を心配する筆者に、「それでも物語を練っていくしかない」という意見を出したのも、このような経験の所産だったはず。そうして回想を終え、深呼吸をした筆者はテーブルの上にグラスを置きながら再び話を続けた。
「みんな、瓦版(tile-block printing)って聞いたことある?」

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