「少年と犬」

「少年と犬」©2025映画「少年と犬」製作委員会

2025.3.14

ひょっとしたら、多聞とすれ違っていたかもしれない「少年と犬」東北から熊本までの3000㎞を5年の歳月をかけて旅した犬・多聞

誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。

筆者:

波多野菜央

波多野菜央

これまで動物と暮らした経験がない私にとって、相棒のような存在がいる人がずっと羨ましかった。小学生の時も、大人になった今も。友達や家族を超えた存在について語る人たちの目はいつも優しいのだ。先日、猫と暮らす女性と交わした会話がとても印象的だった。「しゃべらないからいいんだよね、彼女は」。言葉を持たない相手と言語でコミュニケーションをとることができたらさぞうれしいだろうとばかり思っていた私は、衝撃を受けた。「少年と犬」この映画もまさにこの会話とリンクした。言葉がないからこそ生まれる強固な魂のつながりに、シンガー・ソングライターとして長い間言語化至上主義だった私の概念は、大きく揺さぶられることになる。


孤独や生きづらさを多聞に救われる

2011年3月11日、多くの人の生活や未来を変えた東日本大震災。地震発生から半年後の仙台市で暮らす青年・中垣和正。震災によって職を失った彼は、家族のために被災地で窃盗団の一員として働く中、同じく震災で飼い主を亡くした犬・多聞と出会う。多聞の存在によって穏やかな時間を過ごす和正とその家族であったが、それもつかの間。和正が危険な仕事に手を染めたことがきっかけで多聞とも離れ離れとなってしまう。時は過ぎ、多聞は仙台から離れた滋賀県で罪を隠し生きる女性・美羽と暮らしていた。孤独や生きづらさを抱えていた彼女もまた、多聞に救われていたのだった。やがて引き寄せられた和正と美羽。2人は多聞がみせる「西の方角を気にする仕草」にただならぬ理由を感じ、多聞と共に西に向かうことにした……。

「多くの話を聞き」話を受け止め続けた

被災地における窃盗や貧困などの実際に起こっていた問題に触れながら描かれたこの物語は、地震発生から14年たった今改めて、震災の悲惨さを考えるきっかけとなった。災害そのものが残酷であることはもちろん、それによって浮き彫りになる人間の醜さは信じたくない現実だった。美羽が過ごす生きた心地がしない毎日やすさんだ対人関係も、誰にでもあり得る日常に潜む暗い闇だ。それでも、家族を支えるため犯罪に加担した和正や、愛を信じて行動した美羽からは、完全に憎みきれない純粋さやいとおしさを感じてしまう。そんな私もまた、愚かな人間だ。2人をはじめとした「普通」や「まとも」が難しい不器用なキャラクターたちそれぞれのあふれ出る思いを、多聞はその名前の通り「多くの話を聞き」話を受け止め続けた。

否定も肯定もせずただ寄り添う

登場人物たちは多聞を前にすると、老若男女問わず素直に胸のうちをさらけ出し、分厚い氷が溶けたように涙も流す。多聞はまっすぐな瞳でその声を聞き、否定も肯定もせずただ寄り添う。言葉を持たない多聞に語り続ける彼らは、自問自答を繰り返しているようにも見えた。そうすることで自己と向き合い、感情をあらわにしたのち、前を向くことができていた。これが人間同士だと、言葉選びのミスによる誤解やプライドや計算、気遣いが生じて純粋な魂の対話は難しくなる。これこそが、コラム冒頭の猫と暮らす女性が言っていた「しゃべらないからいいんだよね、彼女は」の真意だったのかもしれないと、この映画を通してスッと腑(ふ)に落ちた。

高橋文哉さんの憑依力

主演の一人、中垣和正役の高橋文哉さんの憑依(ひょうい)力にも引き込まれた。他の作品で中性的な役柄を演じた俳優と同一人物とは思えずに、何度も公式サイトを見比べたほどだ。今作では、理不尽な現実に翻弄(ほんろう)された陰と陽を併せ持つ青年をしっかりと落とし込んでおり、そのいい意味でのつかみどころのなさは役者として素晴らしい武器だと感じた。今後どんな役で登場するのか?私は高橋文哉さんだと気づくことができるのか? という勝手な楽しみを抱いている。

私たちはすれ違っていたかもしれない

東北から熊本までの3000㎞を5年の歳月をかけて旅した犬・多聞。その道中「小倉駅北入口」という見慣れた文字の看板が登場することにも、北九州市民として触れておきたい。その後の展開から推測するに、多聞が北九州を通過したのは今から9年前。私は19歳で、ギターを始めて間もない頃だった。いまと同様に歌うことが大好きで、ギターを背負って小倉駅から山口県下関市の大学まで通っていた。ひょっとしたら、多聞が大切な人の元へ向かって走るところに、私たちはすれ違っていたかもしれない。そう思うと、ただの日常だと思っていた景色や風景がたちまち鮮明に見えてくる。全てにドラマやストーリーがある。あなたはその頃、どこで何をしていただろうか? あの美しくまっすぐな瞳に、見覚えはないだろうか? 私も大切な人たちに愛や気持ちを伝えなければ、と多聞の姿にハッとするのだった。

雪解けのような優しい作品

大切な人に会いたいという純粋なパワーがもたらす途方もない日本縦断。「少年と犬」はその中で描かれる、人間と動物の言葉を超えた絆、出会いと別れ、そして再会の物語だ。動物と暮らした経験がある人はきっと、そのぬくもりを手にとるように感じるだろう。そして、私のようにその経験がない人の心もじんわりと温めてくれる、雪解けのような優しい作品だった。

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