「ドライブ・マイ・カー」©「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

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2022.3.23

よくばり映画鑑賞術:「ドライブ・マイ・カー」はなぜアカデミー賞作品賞候補になったのか その1

映画の魅力は細部に宿る。どうせ見るならより多くの発見を引き出し、よりお得に楽しみたい。「仕事と人生に効く 教養としての映画」(PHP研究所)の著者、映画研究者=批評家の伊藤弘了さんが、作品の隅々に目を凝らし、耳を澄ませて、その魅力を「よくばり」に読み解きます。

伊藤弘了

伊藤弘了

授賞式が迫る第94回アカデミー賞。4部門で候補となった「ドライブ・マイ・カー」は、なぜ世界中で高く評価されているのか。伊藤弘了さんは、主人公の家福が涙を流さないことに着目して、その理由を考察します。

家福が涙を流さないわけ

 

作品の「強度」が目の肥えた観客をつかんだ

「ドライブ・マイ・カー」(濱口竜介監督、2021年)の快進撃が止まらない。現在(22年3月21日)までに国内外で90以上の映画賞を受賞しており、米国アカデミー賞では作品賞、監督賞、脚色賞、国際長編映画賞の4部門にノミネートされている。数年前に世界を席巻した「パラサイト 半地下の家族」(ポン・ジュノ監督、19年)に迫ろうかという勢いであり、日本映画史の文脈では黒澤明の「羅生門」(1951年)がベネチア国際映画祭とアカデミー賞で受賞を果たしたことに匹敵するような大事件になるかもしれない。
 
なぜ、これほど高い評価を受けているのか。もちろん、映画にとって賞など所詮は水物だという考え方もあるし、同時代の評価がすべてというわけではない。だが、高く評価されている作品には往々にしてそれだけの理由があるものだ。「ドライブ・マイ・カー」の場合は、緻密に構成された脚本とそれを生かすための映画的な表現が際立っている。それが映画としての強度につながり、目の肥えた観客を感動させているのである。
 
映画を褒める際に、批評家はしばしば「強度」という語彙(ごい)を用いる。映画批評にあまりなじみのない読者には抽象的に感じられるかもしれない。本連載は映画鑑賞入門であると同時に、映画批評入門でもあろうとしている(この点においても「よくばり」なのである)。連載を通して、映画を語るための発想や言葉遣いにも親しんでもらいたい。
 

繰り返す「水」のイメージ

さて、映画の強度とはいったい何か。人によってさまざまな答え方があるだろうが、さしあたってここでは「細部と全体が有機的に絡まり合って効果的に機能している状態」と定義しておきたい。……これでは余計にわかりづらくなってしまったかもしれない。かみ砕いて言えば「何気ない描写が実は作品内のほかの描写と関係しており、そうした関係の網の目が作品全体に緊密に張り巡らされているような状態」のことである。
 
今回は具体例として「ドライブ・マイ・カー」に表れる「水」の描写を見ていこう。映画監督の三宅唱は、濱口を含む鼎談(ていだん)の場で本作について「水や水辺の場面がすごく多い」という感想を述べている=注1。それに対して濱口は「主題」(これも映画批評に頻出する語彙である)という言葉を使いつつ「涙もそうなのかもしれないけれど、水が流れて、最終的に冷え固まって雪となるような、そういう映画全体の見取り図というのはあったように思います」と説明している。
 
作品を分析的に見る場合、必ずしも作り手の意図に従う必要はない。だが、今回のケースでは濱口自身が漏らした「水の主題」というアイデアは映画を読み解くうえで有力な手がかりとなる。「水の主題」を追うというのは、「水に関連した事物によって映画内に立ちあらわれるイメージの体系」を見定めることである。
 
「ドライブ・マイ・カー」に表れるもっとも大掛かりな「水」は「雨」だろう。劇中では少なくとも3度にわたって雨のシーンが描かれている(映画のなかで雨を描くためにはそれなりの準備が必要となるため、無意味に降らせたりしない)。最初の雨は、主人公の家福(西島秀俊)と妻の音(霧島れいか)が娘の法事(十七回忌だろうか)を執り行うシーンとその帰りのシーンで降っている【図1】
 
現在の家福は舞台演出家(兼舞台俳優)として活動しており、音はテレビドラマの脚本家として活躍している。2人の間には娘がいたが、4歳のときに肺炎で亡くなったという設定である。雨を悲しみの比喩表現として用いる発想自体はごくありふれたものだが、そのありふれた材料をどう生かすかには作り手の技量が表れる。
  
【図1】法事の最中の雨は音で表現され、帰り道ではその雨が視覚的に提示されている。
 

音の葬儀で家福の目に涙がない

2度目の雨は、音の葬儀の日に降る【図2】。家福に何か大事なことを伝えようとしていた音は、それを果たすことなく、くも膜下出血で急逝してしまう。娘を亡くしたあと妻が不倫をしていたことを知っている家福は(劇中には家福がその現場を目撃するシーンもある)、そのことも含めて永遠に解消されることのない謎を抱えて生きることになる。葬儀に臨んだ家福の目に涙はなく、無表情で通している(脚本には「家福の表情から感情は読み取れない」と記されている=注2)。 


【図2】雨の降りしきるなか、音の葬儀は文字通りしめやかに執り行われる。家福が涙を見せることはなく、感情の読み取れない表情を浮かべ続けている。
 
降りしきる雨は、家福が流すことのできなかった涙の代わりなのかもしれない。ここで雨と涙が「水の主題」としてつながってくる。愛する妻を亡くした家福が涙を見せないのは、物語展開上、重要なポイントとなっている。彼は妻の不倫を知っていながら、音との関係が損なわれることを恐れて気づかないふりを続けていた。自分の感情を押し殺して生きてきた人物なのである。
 
一方、音の不倫相手だった可能性のある若手俳優の高槻(岡田将生)について、脚本のト書きには「誰かが家福の前に止まる。高槻だ。涙を流している」という指示がある。少なくとも脚本段階では涙の有無による2人の対比がもくろまれていたことがうかがえる。

その2へつづく)

ライター
伊藤弘了

伊藤弘了

いとう・ひろのり 映画研究者=批評家。熊本大大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶応大法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。大学在学中に見た小津安二郎の映画に衝撃を受け、小津映画を研究するために大学院に進学する。現在はライフワークとして小津の研究を続けるかたわら、広く映画をテーマにした講演や執筆をおこなっている。著書に「仕事と人生に効く教養としての映画」(PHP研究所)。


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