「ドライブ・マイ・カー」©「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

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2022.3.23

よくばり映画鑑賞術:「ドライブ・マイ・カー」はなぜアカデミー賞作品賞候補になったのか その2

映画の魅力は細部に宿る。どうせ見るならより多くの発見を引き出し、よりお得に楽しみたい。「仕事と人生に効く 教養としての映画」(PHP研究所)の著者、映画研究者=批評家の伊藤弘了さんが、作品の隅々に目を凝らし、耳を澄ませて、その魅力を「よくばり」に読み解きます。

伊藤弘了

伊藤弘了

アカデミー賞作品賞候補となった「ドライブ・マイ・カー」、世界の観客を感動させた魅力はどこにあるのか。映画を貫く「水」のイメージをカギに、伊藤弘了さんが読み解く後編です。
その1はこちらから。

緑内障で視野が狭まるのは、現実を直視できないことのメタファー

劇中には、これに先立って家福が泣けない男であることを強調するようなシーンもある。ウラジオストクで開催された演劇祭の審査員を務めて帰国した家福は、自宅へ帰る途中で自動車事故を起こす。検査の結果、緑内障を患っていることが判明し、医師から症状の進行を抑えるための点眼薬を処方される(緑内障によって視野が狭まっている状態は、現実を直視できない家福のメタファーにもなっている)。音から話があると言われた夜、家福は自宅マンションの駐車場に愛車のサーブ900ターボを止め、その車中で左目に目薬を差す。目薬の液は家福の目からあふれて頰を伝わり落ち、あたかも泣いているように見える【図3】
 
家福は、音がカセットテープに吹き込んだ「ワーニャ伯父さん」の台詞(せりふ)を運転中に聞いているのだが、まさにその瞬間にかぶせるようにして「あたしたちは苦しみましたって、泣きましたって、つらかったって」という台詞が再生されている(このシーンの直後に帰宅した家福は自宅で倒れている音を発見し、すぐに葬儀のシーンへと移行するという流れである)。


【図3】「泣きました」というセリフの再生に合わせて、家福の左目からあふれ出した目薬の液が彼の頰を伝って落ちていく。
 
涙は映画の終盤で大きな意味を持つことになるが、その前に、伏線として機能している場面をもうひとつ見ておこう。先ほど言及した鼎談の席上で、映画批評家の三浦哲哉は次のように述べている。
 
序盤に音(霧島れいか)が家福に語る物語のなかで、音の心の奥底から出てきたらしい架空の人物がポタポタと涙でシーツを濡(ぬ)らすと描写されます。そのとても切実な涙を引き取って、家福が涙を流している=注3
 
音はセックスの最中にしばしば夢遊病のような状態に陥って物語を語る。音自身はその物語の内容をよく覚えていないので、翌朝家福から内容を聞き、それをもとにしてドラマの脚本を書く。ここで三浦が取り上げているのは、初恋相手の部屋に忍び込んだ女子高生の話である。彼女は、初恋相手の枕を濡らした涙のことを「しるし」だと感じている。彼女にとって涙はきわめて重要なものなのである。ちなみに、この女子高生は自らの前世が「やつめうなぎ」であったことを覚えている。言うまでもなく、やつめうなぎは「水」のなかでゆらゆらと揺れる水生生物である=注4
 

セックスの最中に音が語るやつめうなぎの物語

音が語るこの物語は、映画の本筋と精妙に絡み合っている。悪行とわかっていながら空き巣をやめられない女子高生は、それを止めるためのきっかけを求めていた節がある。これは不倫を繰り返していた音自身の姿と重なる。家福は、妻の不倫に気づいていながら気づかないふりをしていたわけだが、音は、家福が気づいていることに気づいていたのかもしれない(それを匂わせる「しるし」はいくつもある)。
 
家福に対して、心のどこかではっきりと自分を非難してやめさせてほしいと思っていたのではないか。亡くなった夜に音が切り出そうとしていたのはその話だったのではないか。そのように想像させる作りになっている。だが、序盤の家福は音の涙=しるしに向き合うこともなければ、自ら涙を見せることもなかったのだ。
家福が涙を取り戻すのは映画の終盤である。音が亡くなった2年後に、家福は広島の国際演劇祭で「ワーニャ伯父さん」の舞台を手がけることになる。本番を目前に控えた頃、ワーニャ役の高槻が不祥事を起こして逮捕されてしまう。中止にするか、自分がワーニャ役として出演するかの二択を迫られた家福は、その決断を下す前に、滞在制作期間中のドライバーであるみさき(三浦透子)とともに彼女の故郷である北海道を訪れる。
 
サーブ900で北海道を目指す道中には雨が降っている場面があり、フェリーに乗って北海道に着く頃にはあたり一面の雪景色が広がっている。「水が流れて、最終的に冷え固まって雪となる」という先ほど引用した濱口の発言を裏書きするかのような構成だ。
 
音を見殺しにしてしまったと感じている家福と、実の母を見殺しにしてしまったと感じているみさきは、ともに心に深い傷を負っている。その傷と向き合う覚悟を決めた家福がみさきを抱きしめ「生きていかなくちゃ」と言った直後に、彼の右目から大粒の涙がこぼれ落ちる【図4】。泣けない彼らのために降っていた雨は、その罪を雪(そそ)ぐ雪の結晶へと変わり、彼はその雪を溶かすほどの熱い涙を取り戻すのである。


【図4】「生きていかなくちゃ」というセリフを言ったあと、家福の右目から涙がこぼれ落ちる。
 

一筋縄で読み解けないことも魅力

その後、広島へと戻った家福は自らワーニャ役として舞台に立つ。舞台上で繰り広げられているのは、家福が自宅マンションの駐車場で音の録音テープを聴いていたあの場面である。脚本では「あたしたちは苦しみましたって、泣きましたって、つらかったって」というユナ(パク・ユリム)扮(ふん)するソーニャの手話によるセリフのあとに「家福は、ユナを見て涙を流す」と言うト書きがある。かつては目薬で代替しなければならなかった涙と、家福自身が流す涙を対応させようとしていることが読み取れる。
 
こうして見事な対比構造が生み出され、物語はきれいに終わるように見えるが、実は映画自身はそれを裏切っている。というのも、画面を見る限り、ここで家福は涙を流していないからである。確かに家福の瞳は潤んでいるように見えるし、鼻をすする音も聞こえるが、涙そのものは流れていない。
 
もっとも単純な理由としては、演じている西島秀俊が涙を出せなかったからという事態が考えられるが、おそらくそうではないだろう。直前のシーンで涙を見せているので舞台上で再び見せる必要はないという判断があったのかもしれないし、ユナの手話が涙を表していることが明白だからかもしれない【図5】。あるいは、映画を見ている我々観客が涙を流すために、あえて余白を残してくれているのかもしれない。一筋縄では読み解けないところもまた本作の魅力である。
 

【図5】ソーニャ役のユナは発話ができないため、手話で演技をする。「泣きましたって」のセリフの箇所では、家福の頰を伝わる涙の動きをユナが手話で表現している。
 
注1 「キネマ旬報」2021年8月上旬号、21ページ。
注2 「シナリオ」21年11月号、45ページ。
注3 前掲「キネマ旬報」、21ページ。
注4 「やつめうなぎ」に着目して本作を読み解いた出色の論考に木下千花「やつめうなぎ的思考」がある(「NOBODY」、https://www.nobodymag.com/interview/drivemycar/2.html)。
 
【図1〜5】は、「ドライブ・マイ・カー」濱口竜介監督、2021年(DVD、TCエンタテインメント、2022年)より。
 

ドライブ・マイ・カー

妻を亡くした演出家の家福(西島秀俊)は、広島の演劇祭で「ワーニャ伯父さん」を多言語劇として演出することになった。送迎運転手となったみさき(三浦透子)、家福の妻の浮気相手らしい俳優の高槻(岡田将生)との対話の中で、家福は妻との関係を見つめ直す。村上春樹の小説を脚色し映画化。

ライター
伊藤弘了

伊藤弘了

いとう・ひろのり 1988年、愛知県豊橋市生まれ。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。関西大、同志社大、甲南大非常勤講師。東映太秦映画村・映画図書室スタッフ。著書に「仕事と人生に効く教養としての映画」(PHP研究所)。

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