1991年、初来日した時のブルース・ウィリス

1991年、初来日した時のブルース・ウィリス

2022.5.26

さよなら、ありがとう、ブルース・ウィリス:仰天! カウチに寝たままインタビュー 初来日取材記

失語症を理由に引退を表明した、ブルース・ウィリス。1980年代からアクション、スリラー、コメディーやシリアスドラマまで、ジャンルをまたにかけた作品で、映画ファンを楽しませてくれた。大物感とちゃめっ気を併せ持ったスターに感謝を込めて、その足跡と功績を振り返る。

ひとしねま

野島孝一

ブルース・ウィリスが初来日した1991年11月、当時毎日新聞学芸部の映画担当記者だった野島孝一さんがインタビューしている。ここでも大物ぶりを遺憾なく発揮。記者を驚かせたインタビューを振り返ってもらった。


「ラスト・ボーイスカウト」© 1991 Warner Bros Entertainment Inc. All Rights Reserved.

取材部屋に入ったものの……あれ、どこいった?

失語症で引退を表明したブルース・ウィリスにインタビューしたのは、1991年の初冬だった。「ダイ・ハード」(88年)、「ダイ・ハード2」(90年)で世界中の人気をさらったアクション大スターが、新作「ラスト・ボーイスカウト」のキャンペーンで来日した。こちらも張り切って取材しなければならない――と、勇んでホテルの一室に案内されたまではいい。あれ? ブルースどこへいっちゃったんだ。見れば、カウチに寝そべっている。「やあ、ちょっと腰が痛くてね。寝たまま失礼するよ」。ええーっ。寝たままインタビューかよ。と思ったが、これも仕事だ。
 
――「ラスト・ボーイスカウト」はせりふがユーモラスですね。しゃべりながら噴き出したりすることはありませんでしたか?
 
それはあったさ。NGになったこともある。こういうヘビーアクションは息抜きが必要なんだ。この脚本はよく書けていて、笑いもバランスよく入っている。
 
 
「ラスト・ボーイスカウト」はトニー・スコット監督作品で、脚本はシェーン・ブラック。ブルース・ウィリスは私立探偵を演じた。シェーン・ブラックの脚本には、当時最高額の175万ドルが支払われたという。せりふも相当おもしろかったに違いないが、残念ながらまったく覚えていない。トニー・スコット監督は、リドリー・スコット監督の弟で「トップガン」などのヒット作がある。
 

精悍で髪もふさふさ

スクラップブックを見ると、わりにまともにインタビューした記事が残っている。しかし、実際には寝たきりの相手とインタビューするのは、かなり調子が狂った。
 
もっと調子が狂ったのは、いつのことか覚えていないが、ブライアン・デ・パルマ監督をインタビューしたときだった。なんとインタビュールームに入ると、デ・パルマ監督はハンディーカメラをこっちに向けて撮影している。そのうちにこっちを向いてまともに相手してくれるだろうと思っていたのだが、一向に撮影をやめてくれない。とうとう最後までカメラ越しのインタビューになってしまった。あんなにやりにくかったことはない。
 
ブルース・ウィリスのインタビューに戻るが、もう30年も前のことだったので、ブルースは精悍(せいかん)で、髪もふさふさしていた。「ダイ・ハード」ではほとんどスタントを使わなかったと聞いていたので、アクションについても聞いてみた。
 
――今度(ラスト・ボーイスカウト)は、ぶん殴られるシーンが多い。
痛さを見せないのがハードボイルド。男の美学なんだ。
 
おーっ、かっこいい。通訳がどなただったか覚えていないが、もしかしたら戸田奈津子さんか、あるいは竹内まりさんだったかも。いずれにせよ、名訳だ。


「ラスト・ボーイスカウト」© 1991 Warner Bros Entertainment Inc. All Rights Reserved.

なんだ、起きられるじゃねえか

――プロデュースや監督をやる気はありますか?
 
プロデュースはやったことがある。監督はやる気になれない。1年間も時間を取られるのはごめんだ。
 
音楽活動について聞くと、「ハーモニカとボーカルをやっている。リズム&ブルースが好きなんだ」
 
インタビューが終わり、毎日新聞社のカメラマンが写真を撮る段になると、寝ていたブルースはむっくりと起き上がり、にっこり笑った。
 
なんだ、起きられるじゃねえか。
 
その晩、ブルースは六本木でリズム&ブルースを熱演したそうだ。


「ラスト・ボーイスカウト」DVD(1572円)
発売元:ワーナー・ブラザース ホームエンターテイメント
販売元:NBC ユニバーサル・エンターテイメント

ライター
ひとしねま

野島孝一

のじま・こういち 1941年9月生まれ。上智大新聞学科卒。64年毎日新聞社に記者として入社。岡山、京都支局を経て東京本社社会部、学芸部で映画担当記者。2001年定年退社。フリーの映画ジャーナリストになる。著書に「映画の現場に逢いたくて」(現代書館)、週刊エコノミスト、ウェブサイト「野島孝一の試写室ぶうらぶら」執筆中。