撮影現場の田中絹代監督

撮影現場の田中絹代監督

2022.3.09

女たちとスクリーン② 田中絹代はなぜ監督になったのか

「男性映画」とは言わないのに「女性映画」、なんかヘン。しかし長年男性支配が続いていた映画製作現場にも、最近は女性スタッフが増え、女性監督の活躍も目立ち始めてきました。長く男性に支配されてきた映画界で、女性がどう息づいてきたのか、女性の視点や感性で映画や社会を見たらどうなるか。毎日新聞映画記者の鈴木隆が、さまざまな女性映画人やその仕事を検証します。映画の新たな側面が、見えてきそうです。
 

鈴木隆

鈴木隆

初監督作「恋文」の撮影現場の田中絹代監督。ファインダーをのぞいているのは撮影監督の鈴木博=芸游会提供

「全体を表現したい。監督にならないと」

 
--田中絹代は1949年10月から翌50年1月にかけての約3カ月間、米ハリウッドやハワイに滞在する。渡航中は毎日新聞に現地便りを寄稿していた。ただ、帰国時は洋装にサングラス、ハリウッド仕込みの派手な化粧、集まった群衆に投げキスで応えるなど、変貌ぶりが「アメリカかぶれ」と揶揄(やゆ)された。ハリウッドでジョーン・クロフォードらスターと会い、ハワイでの公演もこなした。
 
田中絹代は当時のインタビューで、自分と同じサイレントのころからのハリウッド女優が一線で活躍していることに刺激を受けたことを話していて、それも監督進出の大きな理由の一つになったと思う。監督について明確に口にしたのは帰国後で、渡米して「監督になりたい」と言ってもいいのだ、と解放されたのではないか。俳優と監督の二足のわらじについて「俳優は自分を殺して監督の色に染まっていくことが大事。個性は相手が決めてくれる」と言い、「俳優は一人のキャラクターを表現するもの。全体的に表現したいので、監督にならないと、と思った」と話している。
 

女性の芯の強さと古風な部分が共存

 
--実際に監督見習いとして付いたのは。
 
帰国してから大変なバッシングにあい、すぐには見つけにくかったようだ。成瀬巳喜男監督の「あにいもうと」(53年)に助監督として付いて修業し、「恋文」(53年)の監督デビュー時に「3年かかりました」と語っている。後のインタビューでもドイツのレニ・リーフェンシュタール監督にも触れていて、同じ女優出身ということもあって意識していたと思われる。
 
--女性監督ということを本人はどう考えていたのか。
 
監督2作目の「月は上りぬ」(55年)で、三女の節子を演じた北原三枝(石原まき子)は元気で魅力的な新しい女性像だったが、終盤に突然古風な女性に変わっていく部分があった。田中絹代の監督作品では、女性は新しい芯の強い部分と古風な部分が複雑に共存している。劇的に変化する増村保造監督の若尾文子が演じる女性像などとは異なる。
 

監督2作目の「月は上りぬ」の奈良ロケ。カメラの右が田中絹代監督、手前にしゃがんでいるのは応援助監督の今村昌平=芸游会提供

40代半ばに転機 「女性の視点で女性像を」

 
--今でも「女性監督ならではの」といった表現を見かけるが。
 
裏を返すと、今までの男性監督によって作られたものと違ったもの、という意味だろうが、田中絹代は「女性監督」と言われるのが嫌で、「なんで女性監督として、というのが付くのか」と日ごろから話していた。
 
それが、「乳房よ永遠なれ」(55年)の時には「女性の立場から演出したい、女体のはかなさ、女でなければ理解できない感情を描きたい」と言い出し、「流転の王妃」(60年)や「お吟さま」(62年)になると「この時代に女がどう生き抜いたか」「女でなければ描けない、いろんなタイプの女性を描きたい」とまで明確に変化する。
 
当初は、女性監督と言われ「なぜ女性という枠の中に入れられるのか」と言い、個人の評価ではなく、女性か男性かという枠組みで見られることへの憤りがあった。それが、作品を作っていく中で「乳房」以降、「女性の視点で女性像を」と意識的に話すようになった。
 

「恋文」の現場で衣装合わせをする田中絹代(右)と出演者の香川京子=田中絹代ぶんか館提供

年相応の汚い女性 役に徹して

 
監督として作品を作っていく中で、女性のキャラクターをどう作り上げていくか、脚本も女性にお願いしたりした。私の推測だが、自分がきちんと共感できる人間像を描く中で、自分の女性像を意識したのだと思う。つまり、それまで描かれてきた女性のキャラクターに納得していなかったのではないか。
 
「乳房」の原作を読み、離婚の問題を考え、乳房をなくすことに涙を禁じえなかったという。「女ばかりの夜」(61年)で売春婦の問題を取り上げた時も、100に近いエンディングのパターンを考えたが「元の売春婦に戻るなら映画を作る意味がない」と話している。自分の女性性を意識し、映画を作っていく中で、監督として社会に作品を発表する時に、自身の女性としての考え方、生き方を無視できなくなっていった。
 
--それは女優としての考え方の変化にもつながる。
 
田中絹代が監督としても役者としても大きく変わったのは40代半ば。おかあさん役など来る役を演じながら、年齢に応じた今までと違った年老いた女性の役も追及した。いつまでも〝きれいな女優〟でいようなどという発想はなかったと思う。
 
田中絹代が演じる高齢女性は本当に年相応に汚く、歩き方とかもよぼよぼ。「サンダカン八番娼館 望郷」(74年、熊井啓監督)がいい例だ。「煙突の見える場所」(53年、五所平之助監督)でも所帯じみてくたびれた中年女を演じていた。役に徹したその姿は、女優として実にかっこいいと思う。
 

冨田美香・国立映画アーカイブ主任研究員

出演俳優に厳しい要求

 
--こうした考えは監督、田中絹代にも
 
その役柄になっていくことを考えた時、男優も女優も関係ない。ひたすら俳優として役柄を開拓していったのだと思う。それと同じことを、監督作品の女優に求めるから監督田中絹代は厳しい。「乳房」主演の月丘夢路は「(田中さんは)何をやっても大女優なので、自分ができないことも含めて、見透かされている気がして怖かった」と語っている。
 
月丘が一例として挙げたのは、実際の乳がんの手術の時に、麻酔を打った後の手術の様子を見るように言われたことで、自分は嫌だったという。「男性の監督だったら翌日の撮影に支障があるとか言って帰してくれただろうが、田中さんに見なさいと言われ、手術中は意識がないのに見る必要があるのか、と思った」という。ここでも役者としての田中絹代は、やはり見る人なんですね。
 
こんなエピソードもある。田中絹代は「山椒大夫」(54年、溝口健二監督)の撮影で、アフレコの前に肉を食べたら「声につやがありすぎる」と溝口監督に言われ、夜中にへとへとになるまで走ってアフレコに臨んだという。そんな体験をしてきた女優が監督になったら、乳房を失うことがどういうことか、痛みを知るために(手術を)見なさい、というのは当然だったのだ。
 
 
 
冨田美香 とみた・みか。専門は日本映画史。立命館大学文学部助教授、映像学部教授を経て、2015年9月から現職(当時フィルムセンター)。主な企画担当事業に「日韓国交正常化50周年 韓国映画1934-1959 創造と開花」「生誕100年 木下忠司の映画音楽」「製作50周年記念『2001年宇宙の旅』70mm版特別上映」「[緊急フォーラム] マグネティック・テープ・アラート:膨大な磁気テープの映画遺産を失う前にできること」など。

ライター
鈴木隆

鈴木隆

すずき・たかし 元毎日新聞記者。1957年神奈川県生まれ。書店勤務、雑誌記者、経済紙記者を経て毎日新聞入社。千葉支局、中部本社経済部などの後、学芸部で映画を担当。著書に俳優、原田美枝子さんの聞き書き「俳優 原田美枝子ー映画に生きて生かされて」。

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