「流転の王妃」の田中絹代(右)と京マチ子=芸游会提供

「流転の王妃」の田中絹代(右)と京マチ子=芸游会提供

2022.3.23

女たちとスクリーン③ タフでかっこいい田中絹代

「男性映画」とは言わないのに「女性映画」、なんかヘン。しかし長年男性支配が続いていた映画製作現場にも、最近は女性スタッフが増え、女性監督の活躍も目立ち始めてきました。長く男性に支配されてきた映画界で、女性がどう息づいてきたのか、女性の視点や感性で映画や社会を見たらどうなるか。毎日新聞映画記者の鈴木隆が、さまざまな女性映画人やその仕事を検証します。映画の新たな側面が、見えてきそうです。
 

鈴木隆

鈴木隆

戦前の無声映画時代にアイドル的存在として人気を得た田中絹代は、戦後も俳優として大監督の作品に出演する一方、監督にも進出した。圧倒的な男社会だった撮影現場で、周囲の中傷を乗り越えて女性監督の草分けとなったものの、監督作は6本にとどまった。冨田美香・国立映画アーカイブ主任研究員が田中絹代の功績をひもとく3回目は、田中絹代の「ブルドーザーのような」馬力と、彼女を阻んだ壁を明らかにする。
 

「松竹をつぶすのか」 「お吟さま」に膨大な製作費

 
--ヒットし評判もよかった日活の「乳房よ永遠なれ」(1955年)から5年あいて「流転の王妃」(60年)になる。
 
「乳房よ永遠なれ」はヒットしたが、その後に予定していた「お吟さま」は一旦、製作が流れてしまった。「流転の王妃」は大映の松山英夫プロデューサーが田中絹代監督に京マチ子を撮ってほしいと企画した。田中絹代と京マチ子という2大女優が組んで、田中演出で京の「新しい一面を引き出してもらいたい」といういい話。
 
後に製作された「お吟さま」(62年)では、当時、社長を退いて相談役だった城戸四郎が田中絹代監督に「君は松竹をつぶすのかね」と言ったほどお金をかけたようだ。この年、すでに松竹京都では時代劇を撮っていない。田中監督は1回流れたこともあって、お茶会とかをきちんと撮り日本の伝統的文化を記録的にも残したいとこだわっていた。
 
実は、城戸が1本だけ監督した「ルンペンとその娘」(31年)に田中絹代は主演しているし、松竹蒲田の時代からいかに田中が松竹を支えてきたかということも膨大な製作費が通った背景にはあったのではないか。ただ、映画界は当時、興行的には下方修正の段階に入っており、「お吟さま」も当たらなかった。それが結果的に監督作品が6本にとどまる要因にもなったと思う。
 
--監督作品は6本ともジャンルが異なるが。
 
確かに題材はさまざまだった。田中絹代監督は「赤い風船」とか「汚れなき悪戯」のような「子供が中心のもの」も撮りたいと言っていた。「乳房よ永遠なれ」や「お吟さま」の後も、企画を出したが流れてしまい、もっと幅広い作品を撮りたかったようだ。映画界の状況が悪化の方向に進み始めたことも監督作6本の理由の一つだ。
 


監督1作目の「恋文」の撮影の合間に脚本を見ながら演出の構想を練る田中絹代(左)=田中絹代ぶんか館提供

プロデューサー不在、製作環境の悪化……消えた7作目

--ほかに6本にとどまった理由は。
 
田中監督は「16ミリでも記録映画でも」と言っていたが、もうプロデューサーがいなかったのではないか。映画会社の専属監督なら制約を受けても短編の記録映画などはありえたかもしれない。自分のプロダクションで撮るにもプロデューサーは必要で、これまで撮ってきた会社は、60年代半ばには新東宝は倒産しているし、日活も大映ももう体力がなくなっている。最もお金がかかった「お吟さま」を、時代劇が撮れなくなっていた状況の中で撮って、それまでの作品のようには当たらなかったことは、製作会社から敬遠されることにもなった。
 
--大手の映画会社以外で撮ることは。
 
岡本喜八や大島渚などは途中から自身の独立プロで作っていくが、ブレーンや撮影所時代の仲間もいて、低予算映画も撮っていた。田中絹代がフリーの監督として築いてきたスタッフは撮影所所属で、撮影所の存続自体が危うい時期。監督としても低予算映画は撮ったことがない。俳優として多くの作品を作ってきた松竹系統の独立プロで撮ろうとしたアプローチも「お吟さま」以後、見当たらない。
 
--映画会社の体制や仕組みが違っていたらもっと撮れたかもしれない。
 
「流転の王妃」が成功しているので大映が倒産しなければ作れたかもしれないが、60年代半ばからはエログロ的な作品が多くなっている。ただ、プログラムピクチャーを作れない、いわゆる職人監督ではない、となると作ることは難しい。その点で田中監督が作りたい映画とこの時代に映画会社が求めた映画とは違っていた。
 
それでも、田中絹代は晩年まで「二足のわらじをはずしたつもりはない」と話している。やはり、一緒にやっていけるプロデューサーがいたら、と思ってしまう。
 
ジャンルは違うが、ドキュメンタリーの羽田澄子監督が自主製作や独立プロで映画を作り続けた背景には、工藤充というプロデューサーがいて、岩波ホールという上映館があった。プロデューサーと上映館、この二つがないと7作目は難しかった。
 
 

田中絹代監督(中央)と「恋文」出演者の森雅之(右端)、香川京子(田中絹代のすぐ後ろ)らキャスト、スタッフ=「恋文」の撮影現場で。田中絹代ぶんか館提供

ブルドーザーで道を広げたパイオニア

--監督を経験したことでその後の女優人生への影響は。
 
映画全体を把握しやすくなり、演出の意図も分かりやすくなったのだと思う。女優としての枠が広がった。40代に女優と監督を並行してやるというハードな仕事を積み重ね、映画全体を見通すことができた。自分だからこそ体現できる年齢の女性を演じるようになり、田中絹代が中高年の女性の役を、汚れ役も含めて演じ、後にそれが広まった。監督をしていなかったら、晩年まであれほど俳優の道を追求し続けただろうか、とも思う。
 
田中絹代は「1本監督をすると、2本の映画にぎっちり出演したぐらいの疲れがある。監督をした後で、エネルギーをふかせるのは大変なことです」と話している。そう言いながら、「恋文」(53年)監督の直後に「山椒大夫」(54年)に出演している。信じがたいことです。
 
--女優田中絹代が監督したという影響は。
 
女性が映画を監督するという発想は、その後、左幸子などに点々として続く。坂根田鶴子が女性監督第1号ではあるが、そのあとを田中絹代がブルドーザーで通って道を広げたぐらいの違いがある。名前、活動範囲、興行で当てたことなども含めてさん然と輝くパイオニア。それに見合う評価が定着しなかっただけだ。
 
しかも、6本とも残っている。女性監督として誰もが田中絹代の名をあげるのは、この時代に、時代劇まで含めた多岐にわたる、優れた作品を撮ったからだ。今の時代に作品を見て刺激を受ける人、特に女性スタッフは多いと思う。
 
 

海外で先行する再評価 日本の遅れは恥ずかしい

--田中絹代とはどういう映画人だったのか。
 
サイレントの時から見かけは童顔でかわいらしい、国民的女優でありアイドルだった。田中絹代が出ているから成立した作品も多い。しかもスランプがない。米国からの帰国後にスランプといわれるが、それでも相当数の作品に出ていて、脇役としてもすばらしい。長い間第一線で活躍し、監督としてこれだけの高いレベルのものを作った。徹底したプロだ。孤独なときもあったろうが、プロに徹するかっこよさがある。
 
--東京国際映画祭で田中絹代監督作が4本上映された。
 
上映されたのは良かったが、なぜ6本できなかったのか、それが問題だと思う。その後、年初に東京・高田馬場の名画座、早稲田松竹でも監督作が上映された。お客さんは入っていたが、その後が続かない。権利会社がバラバラという面倒な問題はあるが、監督として作品をまとまって見せるというマネジメントができていない。
 
よく言われることだが、作る側も見せる側も決定権を持つ立場に女性がいない。ハンコを押す立場の人がいないということだ。女性の管理職が少ないのが問題なのだろう。今、フランス各地、ニューヨークでも田中絹代監督作がまとまって上映されている。海外で特集上映ができて評価も進んでいるのに、日本ではできない、進まない、というのは恥ずかしい話だと思う。
 
 
とみた・みか 専門は日本映画史。立命館大学文学部助教授、映像学部教授を経て、2015年9月から現職(当時フィルムセンター)。主な企画担当事業に「日韓国交正常化50周年 韓国映画1934-1959 創造と開花」「生誕100年 木下忠司の映画音楽」「製作50周年記念『2001年宇宙の旅』70mm版特別上映」「[緊急フォーラム] マグネティック・テープ・アラート:膨大な磁気テープの映画遺産を失う前にできること」など。
 

お吟さま

千利休の娘、吟はキリシタン大名高山右近に思いを寄せていたが、右近は妻がありキリシタンの教えを破る気はなかった。吟は石田三成からの縁談をいやいや受け入れ、廻船問屋万代屋宗安に嫁いだ。豊臣秀吉が吟を見初めたことから、三成と宗安は自分たちの栄華のため、右近を陥れて吟を秀吉の側室に差し出そうとたくらんだ。

製作年 : 1961

流転の王妃

満州国皇帝溥儀の弟、溥傑の妃、愛新覚羅浩の半生を、登場人物の名前を変えて映画化。満州皇帝の弟溥哲のもとに嫁いだ竜子は、慣れない境遇の中、溥哲からのいたわりと息子英生への愛情を糧に懸命に生きる。やがて日本の敗戦を迎え、竜子はソ連侵攻とともに捕らわれの身となった。脚本和田夏十、監督田中絹代、主演京マチ子と、時代を代表する女性映画人が結集した。

製作年 : 1959

ライター
鈴木隆

鈴木隆

すずき・たかし 1957年神奈川県生まれ。書店勤務、雑誌記者、経済紙記者を経て90年に毎日新聞入社。千葉支局、中部本社経済部などの後、学芸部で映画を担当。現在は毎日映画コンクールに携わる。著書に俳優、原田美枝子さんの聞き書き「俳優 原田美枝子ー映画に生きて生かされて」。

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