ひとシネマには多くのZ世代のライターが映画コラムを寄稿しています。その生き生きした文章が多くの方々に好評を得ています。そんな皆さんの腕をもっともっと上げてもらうため、元キネマ旬報編集長の関口裕子さんが時に優しく、時に厳しくアドバイスをするコーナーです。
2023.7.23
ひとシネマ大学生ライターが書いた「赦し」のコラムを元キネ旬編集長が評価する
映画をグンと自分のほうに引き寄せて書く
大学生のひとシネマライター堀陽菜さんが書いた映画コラムを読んで、元キネマ旬報編集長・関口裕子さんがこうアドバイスをしました(コラムはアドバイスの後にあります)。
映画「赦し」は、「死ぬほど短気」だという堀陽菜さんに「少なからず、『他者に寛容になれれば……』なんて感じ始め」るきっかけを作った作品なのだという。
堀さんは、表現力がとても豊か。映画をグンと自分のほうに引き寄せて書いているからだと思う。引き寄せたことで見えてくるのは、書き手が興味を持ったポイント。それを知ると秘密を共有しあうような楽しみが生まれる。
映画には、映像、音、そして物語がある。そのいずれかだけを引き寄せるやり方でも、面白い視点が生まれそうだ。注意点は、それをなるべく分かりやすい言葉で書くこと。
〝至宝の映画評論家〟と呼ばれた亡き双葉十三郎さんの評論はまさにこれだった。映画を自分に引き寄せ、豊富な知識をまぶし、誰が読んでも分かりやすい文章でつづった。双葉さんのことが気になったらぜひググってみてほしい。「赦し」のコラムには、双葉さんの評論を思い出させるものがあったので。
堀さんのコラム
「あいつだけは赦(ゆる)さない」。誰かを死ぬほど憎んだことはありますか? 私はある。誰でも心の中では殺人鬼にだってなる。何度でもなる。それは、自分の「正義」を守るため。
作品に身を任せてみよう
作中、常に感じていたことがある。異なるベクトルから一つの事件について各人の「正義」を押し付け合っているもどかしさだ。基本面倒くさがりの私にとって、答えのない物事を追及し続ける様は、煩わしい。極力避けたい。しかし、「もういいじゃないか」と片付けようにも、人が1人死んでいる、そんな作品を目の前にしてこの一言は口が裂けても言えない。いや、言いたくない。
どうせなら、作品に身を任せてみようと思った。「赦し」
それはどうすることなのか、考え続けるいい機会となった。19歳の私が、死ぬほど短気な私が、少なからず、「他者に寛容になれれば・・・・・・」なんて感じ始めている。そのきっかけとなった映画「赦し」について今回は語っていきたいと思う。
赦すということは自分の正義に穴をあけることだ
7年前、クラスメートを殺害した罪で20年間の懲役刑を言い渡された福田夏奈。そんな彼女に再審の機会が与えられる。夏奈が殺したクラスメートの父親である克とその元妻の澄子に裁判所から再審の通知が届く。7年前の過去にとらわれた3人が、7年後の今も苦しみ続けている中、犯人である夏奈を克と澄子は「赦す」ことができるのか・・・・・・。
誰かを赦すということは自分の正義に穴をあけることだ。守り抜いて、信じ切っていたものを突き刺されると痛い。受け入れるにはとても勇気と覚悟が必要だ。例えが悪いが、満員電車の座席争いに負けていちいちイライラしている私だ、とてもじゃないけど、こんな勇気も覚悟も現時点ではこれっぽっちも持ち合わせていない。あぁ、例えが本当に悪かったが、要はみんな自己中で生きているということだ。「自分はこうだから!」と思いすぎている。だから、他人の意見は聞くのも難しいのに、受け入れる、赦す、だなんて・・・・・・、はぁ・・・・・・?と、こんな調子の方が多いのではないのだろうか。
では、登場人物たちの「正義」とは一体何なのか? 夏奈を一生監獄に閉じ込めたい、克。一刻も早く裁判を終わらせ未来に悲しむ人が出ないようにと願う、澄子。過ちを認め社会に出て誰かの役にたちたいと望む、夏奈。そして、もう一人、裁判所の再審で賠償金をとりたい、弁護士。
誰も間違っていない。面白いことに、薄っぺらな正義を語る弁護士だって別に間違っていないのだ。立場を変えて私からみれば、弁護士の正義は間違っている。とても不純だ。しかしその薄っぺらさの中に彼としての正義が必ず存在している。きっと弁護士なりの、何かが。
監督が言いたいのはきっと、こういうことなのだと思った。「答え」の着地点がないからこそ、人は苦しみ、悩み、考え続けるのだろう。
未来なんかどうでもいいんだよ
夏奈が殺人を犯したのは17歳。目をそむけたくなるような現実が引き起こしてしまった許されない行動。それから7年、夏奈は自分の犯した罪と向き合い続けてきた。夢とか希望とか、目に見えないキラキラした何かを追いかけるはずの年ごろに、彼女は毎日、現実と向き合っていた。
自分自身の「正義」と共に。
夏奈が法廷で話した言葉「自分の罪は赦されるものではないけれど、自分の経験が同じように苦しんでいる人たちの役に立てればうれしい」に、確実に未来を見据えている彼女の姿勢が表れていた。未来も何もない刑務所で過ごすよりも、未来がある社会に出るべきだ、というのが夏奈の考える「正義」であると感じた。
克もまた自分の正義を持つ。親が我が子に託す信頼は強い。本当に強い。そんな中、裁判が進むにつれ娘が殺害された原因が徐々にあらわになっていく。その現実を目の前にした時、克は今まで信じ続けていた娘への信頼がどう変化していくのか、はたまた変わらず信じ続けるのか、親を持つ子供の私からすれば実に興味深いものであった。
未来を見据える夏奈に対して、克がこぼした言葉は、「未来なんかどうでもいいんだよ」。
この一言、すごく応えました、19歳の私には。親が子にかける思いとか、なんかそういうのが全部詰まっていると感じた。実は私の両親は地元で有名な過保護ペアレントであるが、もし私が殺されたら私の両親もこうなるのかなと想像してしまった。そんなことを考えた時、そこまで愛情を注がれているのがうれしい半面、少し重い気もする。それが本音だ。
「少年犯罪」という言葉は特別な響きがある。夏奈のように17歳未成年である場合、たとえ殺人を犯しても刑が軽くなる。だが、殺人を犯し遺族が悲しむのはどんな形であろうと変わらない。
法という単純なシステムと、心という複雑なニンゲン。それが交わる時、十人十色の見解を持ち、悩み続けることがこの映画から出された宿題なのではないだろうか。答え合わせも自分自身考えてください、というふうに。
映画「赦し」は年齢、立場、性別が違う目線で見ることができる作品である。だからこそ、私と年の近い人たちにもぜひ見てほしい、そして、一緒に考え続けてほしいと思う。