毎日映画コンクールは、1年間の優れた映画、活躍した映画人を広く顕彰する映画賞。終戦間もなく始まり、映画界を応援し続けている。第77回の受賞作・者が決まった。
2023.3.02
中島貞夫 「生身の人間が生死かける、ちゃんばらの真価」 毎日映画コンクール特別賞
第77回毎日映画コンクールで特別賞に選ばれた中島貞夫監督。「時代劇は新たな可能性を秘めている」と、88歳の今なお、映画への情熱は消えない。創作に関わるようになって60年以上というレジェンド。自らの〝映画史〟を語り、活動の拠点とした京都への思いを語った。
ギリシャ悲劇は昔話、だから京都で時代劇
毎日映コン特別賞について「年も取ったし、ご苦労さんでしたっていう賞なんでしょ?」と、おどけた様子だ。言葉の端々からユーモアが漂い、あっという間に相手をリラックスさせてしまう。「現場に行くと、今でも若々しく立ち回れるんですよ」と語る。
1934年、千葉県生まれ。中学時代は演劇と野球に熱中し、高校生の頃に映画を見るようになった。東京大に進み、脚本家の倉本聰らと「ギリシャ悲劇研究会」を設立。シナリオやプロット作りを学び、日比谷野外音楽堂の公演は大評判になった。東大を卒業した59年、助監督として東映に入社。東京のほか、時代劇中心の京都撮影所があり、「京都はとにかく忙しいことで有名」。同期の多くが東京志望だった。
中島監督が京都に配属された理由は意外なものだった。「お前、ギリ研か。ギリシャ悲劇は昔話だから時代劇だなって。そもそも当時の東映社員は誰一人、ギリシャ悲劇が何なのかなんて知りやしない。京都に新人を送り込まなきゃいけないから、へりくつをつけただけ」と笑う。
下積み2年「くノ一忍法」でデビュー
助監督として、マキノ雅弘ら日本映画の歴史を彩る名監督の下で仕事を覚えた。当初は下働きばかりで徹夜が続き、逃げ出したくなったこともあった。「でも、会社を辞めようとまでは思わなかったねえ。楽しいって言ったらうそになるんだけど、これを乗り越えないと自分の映画は作れねえんだから」。下積みは2年ほど続いたが、要領が分かってくると、企画を考える余裕も出てきた。
デビュー作「くノ一忍法」(64年)は、60年代後半から始まる「東映ポルノ」の先駆けになった。出世作となる「893愚連隊」(66年)などを発表し、67年の「あゝ同期の桜」を最後に東映を退社してフリーに。60本以上もの映画を撮り続け、ヤクザものの「まむしの兄弟」シリーズや「極妻」シリーズなどをヒットさせた。
「極道の妻たち 決着」(98年)以降は監督業を離れ、大学で後進の育成に力を注いでいたが、2019年公開の長編時代劇「多十郎殉愛記」で、20年ぶりに復帰した。愛する者を守るため、主人公が追っ手を斬って斬って斬りまくるクライマックスの大立ち回りは、目が離せない美しさと緊張感があった。
時代劇に今でも可能性
23年1月には「多十郎殉愛記」の撮影現場に密着し、中島監督のインタビューなどを収録したドキュメンタリー「遊撃/映画監督 中島貞夫」(松原龍弥監督)が公開された。「また撮ってほしいなんて言われるけど、それはもう年寄りの冷や水になっちゃうよ」と笑う。
こだわり続けたのは、東映京都撮影所の伝統である時代劇、それを象徴するちゃんばらだ。「生身の人間同士が生死をかけてぶつかり合うことでしか生まれない極限状態にこそ、ちゃんばらの真価がある」と中島監督は信じている。「時代劇は日々の鍛錬や稽古(けいこ)を積み重ねないと撮れないもの。すごく泥臭い現場だけど、正面切ってチャレンジする人をこれからも応援したい。時代劇には今でも新たな可能性が秘められていますから」と発展を願う。
「遊撃/映画監督 中島貞夫」©2022「遊撃/映画監督 中島貞夫」製作委員会
京都に根付く映画愛
京都に拠点を置いて作品を作ってきた。関東に戻らなかった理由を、「京都の人に親しみを感じてますから」と話す。きっかけは「893愚連隊」のゲリラ撮影だった。「チンピラ連中が撮影の応援に来てくれて、酒を飲ませているうちに仲良くなりました」。いわゆる文化人ではない、市井の人々の中に根付く「映画を愛する気持ち」に気付かされた。
99年に始まったKBS京都(京都市)のテレビ番組「中島貞夫の邦画指定席」ではナビゲーターとして作品を解説し、裏話を語ることもあった。番組が約15年も続いたのは、地元の視聴者の支持があったからだろう。
現在は京都国際映画祭の名誉実行委員長を務め、「映画の街・京都」の応援を続けている。「京都には今も映画作りの土壌がある。若い人の中から、映画をけん引するリーダーがどういうふうに生まれてくるか、楽しみだね」