2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。
2022.11.09
映画館のあった風景 プロローグ
「映画館のあった風景」
こんなタイトルを思いついたのは、2020年師走、ある少年と出会ったことがきっかけでした。
高倉健が生前、旅の途中で偶然目にした学校の運動会。
その光景に感激して、「沖縄の運動会」というタイトルで「南極のペンギン」(集英社文庫)に書かれたのが、沖縄・石垣島にある富野小中学校でした。
「ぼくの仕事は俳優だから、よくひとから拍手される。
でも、拍手されるより、拍手するほうが、ずっと心がゆたかになる。
そう思いながら、ぼくは手をたたきつづけていた。
この島で過ごしていると、夜空の星の美しさにも感動する」
(「南極のペンギン」の「沖縄の運動会」より一部抜粋)
東京に戻った高倉は、星空美しき石垣島の生徒さんたちに生かしてほしいと、自分が大切にしていた双眼鏡を学校に寄贈しました。
ほどなく、学校からはみかん箱半分くらいの大きさの箱が届けられました。中身は、濃い緑色の直径3~4センチほどのたくさんの丸い果実。
当時の学校長、鳩間先生と生徒さんからのお手紙には、
「僕たちが校庭にあるシークワーサーの木から取った実です。搾ってジュースで飲んでみてください」と書かれていました。
シークワーサー(和名:平実檸檬=ヒラミレモン)は、沖縄原産のミカン科の常緑低木。
高倉は、「飲んでみよう!」と。
こんなほのぼのとした交流が、しばらく続いていました。
20年11月、宮川るり子校長の代になった富野小中学校で、高倉の七回忌を催してくださったことを、テレビのニュースで知りました。
時はコロナ禍、宮川校長の許可を得て、私は富野小中学校の全校生徒15人、教職員の皆様にお礼を伝えに伺いました。
生徒の皆さんお一人ずつに「南極のペンギン」の絵本を手渡し、学校を後にしようとすると、宮川校長から呼び止められました。そして、さきほど、ごあいさつさせていただいたなかの生徒さんのお一人が、校長先生の横に立ち、
「小田さん、琉歌(るか)さんの夢は、この島に映画館を造ることなんですよ」と、副生徒会長の德琉歌(とく・るか)さんを改めてご紹介くださったのです。
琉歌さんは、「今、この島には、(常設の)映画館が一館もありません。僕は、両親と一緒に行った旅先で、映画館で映画を見るのが大好きになりました。だから、いつか、この島に映画館をよみがえらせたいんです。これから、いっぱいいろんな勉強をします」と話してくれました。
映画館……。
そういえば、16~18年の2年間、高倉の追悼特別展が全国各地で開催されたときも、
「健さんの映画で勇気をもらったんです。その映画館も無くなって、今は○○に建て替えられました」など、街の映画館が姿を消していることを多くの方から伺ったことを思い出しました。
「あの暗がりにだまされにいくのがたまらないんだよ。映画館でてくるときは、違う自分になってるんだもの」とのお話をしてくださった方や、「み~んなで映画に拍手した時代だったのさ!」と、映画館の思い出を懐かしむ方もおられました。
はたして、どんな映画館があったのか。
高倉ゆかりの地に、今は無き映画館の面影を求め、次世代への資料としてつないでいけないかとこの企画をスタートさせることにしました。
諸行無常・映画館の今
ここに一枚のチケットがあります。
ミニシアターの元祖といわれた岩波ホール(東京都千代田区神田神保町・岩波神保町ビル内)での最後の上映作品、ベルナー・ヘルツォーク監督のドキュメンタリー映画「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」のものです。
岩波ホールは1968年に多目的ホールとして開館し、74年からエキプ・ド・シネマ(フランス語で映画の仲間)運動により、大手配給会社が扱わない数々の話題作を発掘して、これまで66の国と地域の計274作品を上映してきました。
私自身も大好きだった映画館。
もしかしたら、ソフト化が難しいかもしれない作品、ここでしか見ることができない一本を楽しみにしていた一人です。
コロナ禍となり、伺うたび観客数が少ないことは気になっていましたが、予告編を見て気になっていた作品「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」が最後となろうとは……。
今回の企画テーマ、姿を消した映画館を身近に経験することになりました。
上映までの待ち時間、これまでにない大勢の人がロビーに集っていました。永年ここに通われていらしたと思われる、場慣れなさったご高齢の方々も少なくありませんでした。
ロビーの右側の壁面を埋め尽くすように張り出されていたのは、これまで上映した作品のチラシ。皆さん、マスク姿で会話もままなりませんが、いとおしげに眺め続けていらしたのが印象的でした。
7月29日、54年の歴史に幕を下ろした理由は、新型コロナウイルス感染症の影響で運営困難と判断したと報道されていました。
言うまでもなく、19年末、中国で特定された新型コロナウイルスは、瞬く間に世界的感染拡大を引き起こしました。感染阻止のため、世界中の主要都市や国境が封鎖され、日常生活が大きな制約を受けた結果、世界経済が未曽有の打撃を受けました。
移動制限が課され観光需要の消失により影響を受けた空運、陸運、宿泊業。テレワークの普及により外食やアパレル、そして、エンターテインメント業界も例外ではなく大きな影響を受けたのです。
20年、日本の映画興行収入(興収)は、1432億8500万円。
史上最高(2611億8000万円)を記録した19年に比べ、ほぼ半減の54.9%。人々の外出自粛や映画館の短縮営業・休業により、客足が激減、興収を計測しはじめた00年以降、最低の数字となったのです(いずれも出典:一般社団法人日本映画製作者連盟)。
その結果、20年以降、映画館の閉館(予定を含む)が相次ぎました。
20年5月22日 山形県・鶴岡まちなかキネマ(23年3月25日再生オープン予定)
20年12月9日 東京都 ユジク阿佐ヶ谷
20年10月31日 宮城県 MOVIX利府
20年11月30日 愛知県 TOHOシネマズ名古屋ベイシティ
21年5月20日 東京都 アップリンク渋谷
21年8月29日 青森県 青森コロナワールド
22年7月29日 東京都 岩波ホール
22年9月19日 北海道 ディノスシネマズ旭川
(22年11月27日 東京都 ミニシアター飯田橋ギンレイホールはビル老朽化のため立ち退き移転につき一時閉館、移転場所・時期未定)
22年12月4日 東京都 渋谷TOEI① & ②
23年1月5日 青森県 フォーラム八戸
(なお、22年8月10日に全焼した小倉昭和館は今後の動きが未定のため除外しています)
22年に入り、世界各国で新型コロナウイルスに対する措置に差異が出始めました。
3月18日、イギリスでは入国時の新型コロナウイルス対策として課せられていた水際措置は全廃。マスク着用義務なし。
フランスでは、新型コロナウイルス感染症拡大に対応するために導入した特例措置を終了する法律が8月1日に施行。
9月14日、WHO(世界保健機関)のテドロス事務局長は、新型コロナウイルスによるパンデミックの状況について「終わりが視野に入ってきた」との見解を明らかに。
対して、ゼロコロナ政策をとり続ける中国。
欧米とアジア諸国で、新型コロナウイルスの対応は大きく分かれ始めてきています。
もはや、動画や映画鑑賞はオンデマンドがスタンダードとして認識されている時代、映画館に足を運ぶという映画鑑賞には、今まで以上に、個性的なソフト選択や、ハード面でのエンターテインメント性が求められてくるのかもしれません。
「ストーリー・オブ・フィルム111の映画旅行」を作ったドキュメンタリー映画監督のマーク・カズンズは、フランスには「映画館は村の心臓であるという言葉がある」と、映画館の大切さを語っていました。
高倉とのご縁を通じて、姿を消していった映画館を訪ねます。
福岡編:第1回 高倉健の故郷 / 福岡県・中間市
第2回 高倉健の故郷/福岡県・遠賀川から若松へ
番外編 高倉健の故郷
北海道編:北海道・南富良野町
沖縄編:沖縄県・石垣島