福岡県中間市にあった毎日館 イラスト:梅田正則

福岡県中間市にあった毎日館 イラスト:梅田正則

2022.11.11

「映画館のあった風景」第1回 高倉健の故郷 / 福岡県・中間市

2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。

ひとしねま

小田貴月

映画館は格好の遊び場

「おっだ(小田=高倉の本名)で~すって、映画館の入り口で名乗って、友達何人かと一緒にすいすい中に入ってっちゃった」と、映画館のエピソードを話してくれた高倉。
お父様が炭鉱の労務管理の仕事についていたことから、町にたくさんできていた娯楽施設の映画館には、縁故で顔パス。
こども時代、映画館(の館内)は格好の遊び場だったといいます。
 
高倉が生まれた福岡県中間市は、福岡市と北九州市の間に位置していて、筑豊炭田の一角をなしていました。明治時代からその炭鉱に働き口を求め、九州や本州だけでなく、朝鮮半島出身の在日韓国・朝鮮人の方々も集まっていた土地。

その大勢の働き手のストレス発散のため、駅を中心に歓楽街が作られていきました。

現在の中間駅

その娯楽施設のなかには、大正時代からある劇場も含まれ、新派劇、連鎖劇(活動写真と芝居の交ざったもの)、節劇(浪曲入り)などが上演されていたのです。

高倉が少年時代に遊び場としていた映画館は、昭和の初めに開館した「毎日館(=第二毎日館)」と、1932(昭和7)年に開館した「東洋観」。
町の最盛期には、「日活東洋映画館」「セントラル映劇」「中間東映」「名画座」「第二東映」が観客数を競っていました。

高倉「映画は、忍者ものやチャンバラ。興奮して館内を走り回ってね。(子供だから)エネルギー余ってて、友達とチャンバラごっこ。そしたらある日知らない大人から、いきなり中指を突き出したげんこつを頭にガツンと大目玉をくらって、その場にしゃがみ込んだ。目から火が出るっていうだろ、あれ! あの痛みは今でも覚えてるね。痛みっていうか、ショック」と、当時の話を笑いながらしてくれたことがありました。
自分が、映画に出る仕事に就くことなど、露ほどにも思っていない頃の話です。
 
「第二毎日館」は41年に「毎日館」と名前を変え、さらに59年に「中間大映」「中間松竹」の2館に分かれました。
 
戦後のエネルギー革命によって炭鉱は閉山。
町の活気が失われていくのと呼応して、67年に、「中間東映」をはじめほとんどの映画館が閉館し、最後に残っていた旧毎日館=「中間松竹」も72年に閉鎖され、中間市から映画館が姿を消しました。
 

映画俳優・高倉健誕生

映画俳優、高倉健が誕生したのは、55年。
東映ニューフェイス第2期生を経て、翌56年24歳のとき「電光空手打ち」で主演デビューを果たします。
日本映画の観客数のピークは、58年11億2745万人(2008年3月5日付毎日新聞)。
59年にはそれまで人気全盛だった時代劇が衰退し、高倉は、現代劇プログラムピクチャー量産時代の波に乗りました。
 
デビューからおよそ10年、高倉は、「網走番外地」シリーズ、「日本俠客伝」「昭和残俠伝」シリーズなどの代表作に恵まれ、"健さん”として愛されるようになりました。
 

ふるさと・遠賀川

デビューから20年後、東映退社に当たる76年3月読売新聞の記事では、高倉はふるさとについてこんなふうに話しています。
 
「ふるさとという言葉から浮かぶものですか。(中略)やっぱり、遠賀川(おんががわ)とボタ山ですね。(中略)どこに学校をかわっても、その道すがら必ずボタ山と遠賀川か、その支流があり、恰好(かっこう)の遊び場でした」と子供時代を振り返っています。
 

現在の中間小学校

高倉が学校を変わってもと話しているのは、実は、小学校を3度転校した経験があったからです。
まず小学2年のとき、肺浸潤(肺結核の初期症状)を患い1年間休学。中間小学校から折尾の本城小学校に転校して2年生をやり直し、10歳の時、太平洋戦争の始まりとともに、家族そろって遠賀郡香月(かつき)町(現・北九州市八幡西区香月)に疎開し、池田小学校へと転校したのです。(つづく)

イラスト 梅田正則
プロフィール
48年、新潟生まれ。テレビ・映画美術監督。
テレビドラマ「北の国から」「踊る大捜査線」「ロングバケーション」「これから~海辺の旅人たち~」(主演:高倉健)、「若者たち2014」ほか数多くの作品の美術監督をつとめる。22年、実写世界からアニメに挑戦。69~74歳まで6年かけて「ケンタのしあわせ」(3分55秒)を、梅田正則監督作品としてついに完成させた。


【関連記事】
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・「映画館のあった風景」第2回 高倉健の故郷/福岡県・遠賀川から若松へ
・「映画館のあった風景」番外編 高倉健の故郷

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ライター
ひとしねま

小田貴月

おだ・たか 株式会社高倉プロモーション代表取締役
東京生まれ。女優を経て、海外のホテルを紹介する番組のディレクター、プロデューサーに。96年、香港で高倉健と出会う。13年、高倉健の養女に。
著書に、「高倉健、その愛。」、「高倉健の美学」、「高倉健の想いがつないだ人々の証言~私の八月十五日」。

カメラマン
ひとしねま

小田貴月

おだ・たか 株式会社高倉プロモーション代表取締役
東京生まれ。女優を経て、海外のホテルを紹介する番組のディレクター、プロデューサーに。96年、香港で高倉健と出会う。13年、高倉健の養女に。
著書に、「高倉健、その愛。」、「高倉健の美学」、「高倉健の想いがつないだ人々の証言~私の八月十五日」。

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