「毎日映画コンクール」は1946年、戦後の映画界復興の後押しをしようと始まりました。現在では、作品、俳優、スタッフ、アニメーション、ドキュメンタリーと、幅広い部門で賞を選出し、映画界の1年を顕彰しています。日本で最も古い映画賞の一つの歴史を、振り返ります。毎日新聞とデジタル毎日新聞に、2015年に連載されました。
2022.2.13
毎日映コンの軌跡⑱ 牛原虚彦監督 草創期から重要な役割果たす
毎日映画コンクール草創期から、重要な役割を果たした映画監督がいた。牛原虚彦(きよひこ)だ。東京帝大を卒業後、創設されたばかりの松竹蒲田撮影所入り。1926年に半年間、米ハリウッドに渡り、チャプリンの下で映画を学び「サーカス」の撮影にも立ち会った。帰国後は「受難華」「若者よなぜ泣くか」など多くを監督した。人望厚く温厚な人柄で、36年の日本映画監督協会設立に、小津安二郎監督らとともに尽力している。海外の国際映画祭にも、審査員としてしばしば招かれた。
映コンとの関わりは、前身の全日本映画コンクールにさかのぼる。牛原は30~32年、トーキー映画研究のため、欧州に滞在した。その際、毎日新聞の前身の大阪毎日新聞パリ特派員だった永戸(えいと)俊雄と親交を結ぶ。満州事変、上海事変と国際情勢が激動する中、永戸は取材に走り回り、牛原もニュース映像を日本に送る手伝いをしていた。
フランス文学に造詣が深かった永戸は、牛原とともに観賞し、映画撮影現場を訪ねたという。永戸は帰国後、文化部(現学芸部)副部長として、35年の全日本映画コンクール創設に関わることになった。@@@ 戦後、毎日映画コンクールとして復活する際、文化部長となっていた永戸が相談したのが牛原だった。牛原は映画界と毎日新聞社との橋渡しとなり、第1回(46年度)から運営、選考の両委員に加わり、85年に死去するまで映コンを支えた。
第10回で永戸とともに功労賞、第20回で評論家の飯田心美(しんび)らと特別功労者、第39回で特別賞を贈られている。第2回から選考・運営に携わった映画評論家の登川直樹、70年代初頭から選考委員となり、後に諮問委員長として映コンの柱となった映画評論家の品田雄吉とともに、その名は深く映コンの歴史に刻まれている。