演出中の田中絹代=1953年

演出中の田中絹代=1953年

2022.2.23

女たちとスクリーン① 田中絹代 時代を先駆けた大女優にして監督の再評価が進んでいる 

「男性映画」とは言わないのに「女性映画」、なんかヘン。しかし長年男性支配が続いていた映画製作現場にも、最近は女性スタッフが増え、女性監督の活躍も目立ち始めてきました。長く男性に支配されてきた映画界で、女性がどう息づいてきたのか、女性の視点や感性で映画や社会を見たらどうなるか。毎日新聞映画記者の鈴木隆が、さまざまな女性映画人やその仕事を検証します。映画の新たな側面が、見えてきそうです。
 

鈴木隆

鈴木隆

「男性映画」とは言わないのに「女性映画」、なんかヘン。長く男性に支配されてきた映画界で、女性がどう息づいてきたのか、女性の視点や感性で映画や社会を見たらどうなるか。女性映画人やその仕事を検証します。


冨田美香・国立映画アーカイブ主任研究員に聞く 今なぜ田中絹代なのか


映画界と映画史を、女性の視点から見直すこの連載。最初は戦前、戦中、戦後を通じて数多くの名作、傑作、大ヒット作に出演し、日本映画史にさんぜんと輝く大女優としてその生涯を生き続けた田中絹代。監督としての田中絹代に着目する。1953年から62年までに「恋文」「月は上りぬ」「乳房よ永遠なれ」「流転の王妃」「女ばかりの夜」「お吟さま」と6本の映画を監督した。国立映画アーカイブの主任研究員で、監督田中絹代の作品や発言、文献、評論などに詳しく、当時の映画界の事情も熟知している冨田美香さんに、田中絹代監督が生まれるまでやその背景、再び注目を集め始めた理由などを縦横に語ってもらった。

 
田中絹代について語る、冨田美香・国立映画アーカイブ主任研究員

「小津、成瀬のおかげで監督ができた」色眼鏡で見られた監督業

 
--昨年7月のカンヌ国際映画祭クラシック部門で監督2作目の「月は上りぬ」(1955年)の4Kデジタル復元版が上映され、同11月には東京国際映画祭で監督作品が4本上映された。監督としての田中絹代が昨今注目されているのはなぜか。
 
2009年に(当時の)フィルムセンターでの大規模な特集上映「生誕百年 映画女優 田中絹代」で出演作および監督作計97作品を上映し企画展も行った。明治学院大学の斉藤綾子先生や京都大学の加藤幹郎先生が、特に監督3作目の「乳房よ永遠なれ」(1955年)について新たな視点を示した。それ以前にも、監督作品は東京国際女性映画祭などで上映されていたが、まだジェンダーやフェミニズムの問題意識が今ほど一般化されておらず、私自身も関心が薄かった。
 
私は石井輝男監督の作品がとても好きだったので、「恋文」で助監督をしていた石井監督の批判的な発言や、「小津安二郎監督や成瀬巳喜男監督がサポートしたから監督ができた」というわりと広がっていた話を、そのまま無批判に受け止めて色眼鏡で見ていたし、作品を正当に評価していなかった風潮もあったと思う。
 
--監督作品への見直しは海外から始まったということか。
 
韓国のフィルムアーカイブの韓国映像資料院(KOFA)と国際交流基金が2021年に開催した日本の女性映画監督特集で、田中の監督全6作が上映されたり、米コロンビア大学が女性監督のサイトを作り、その中で田中を日本の代表的な女性監督として紹介している。2017年にアメリカで始まった「#MeToo」運動の影響もあって、女性監督への関心が世界的に高まっているのは事実だ。
 
--日本は女性監督への評価が遅れている。
 
私たちも日本の女性監督というとまず羽田澄子さんが浮かぶし、ドキュメンタリーの方をイメージしやすい。田中絹代は女優としての名前があまりに大きいこともあって、振り返ってみると、監督作品を上映する機会も少なかったように思う。
 
--確かに、私自身も学生時代に旧作の日本映画を上映していた(銀座の)並木座によく足を運んでいたが、田中の監督作を上映していたという記憶は残っていない。
 

卓越したキャラクター造形 忘れられた傑作「乳房よ永遠なれ」

 
実際、名画座で田中絹代の特集をやっても、監督作品までは手が回らなかったという感じだ。そういえば、同じ女優だったジャンヌ・モローやジョディ・フォスターらが監督をした時も、日本には田中絹代がいるという感じにはならなかった。
 
個人的な見方だが、田中への評価の根底には、女優への偏見がどこかにあったのではないか。田中と一緒に数々の名作を作ってきた溝口健二監督の「絹代の頭では監督はできません」という言葉が広がったように、当時、女優は学歴もなく、高貴な人たちは女優と一緒に並ばないと言われていたような時代だった。欧米では女優はさげすまれる対象ではなく、ある意味でアーティストで専門家。女優が撮った映画と男優が撮った映画の差はなかったのではないか。
 
--14歳で映画デビューし、清純派スターから松竹の看板女優、演技派となった田中絹代。フィルモグラフィーを見るまでもなく、これだけ多くの巨匠の作品に出演し、数々の秀作に出演していたら演出力もあると思ってしまいがちだが。
 
女優としては、昔ながらの庶民的でおとなしい受け身の女性の役が監督になるまでは多かった。この女優に何ができるんだろう、という偏見もあったと思う。私自身も監督作品を見るまでは偏見がなかったとはいえない。6作品を見て、中でも「乳房よ永遠なれ」を見たら、あの時代によくここまで主人公のキャラクターを構築できたと驚くばかりだった。この作品が代表作として上映され続けていたら、監督としての評価は大きく違っていたにちがいない。「乳房よ永遠なれ」は、製作・配給した日活のその後の変遷、倒産などにも大きく影響を受けたと思う。田中の訃報記事は監督をしたことにも触れていて、「日本の女性監督の先駆者」と書いている新聞もあったが、追悼上映は「伊豆の踊子」「サンダカン八番娼館 望郷」など女優としてのものばかりだった。
 
--大女優だったことが、監督の評価では不幸を招いたともいえるか。
 
女優としてのネームバリューがあったからこそあに時代に撮れたわけで、監督になれたのは大女優だったからでもある。当時、新東宝とか日活というわりと新しい映画会社が、田中の人気を含めて新人監督として受け入れたといえるだろう。大ヒットする作品もあったし継続して監督できることにもなった。
 
田中は「女性の国会議員が出てくるなど女性が社会の中で活躍していくのを見て、自分も何かしたい。ただ、これまで演技者しかやっていないので、できるのは演出ぐらいでは」と話していて、監督をやる理由の一つにあげている。日本映画では坂根田鶴子に続く2人目の女性監督だが、映画監督の世界も女性の進出が遅れていたともいえる。女性作家も活躍し、女性対象の雑誌も次々と出てくるような時代の中で、自分ができることを考え、監督を志したのだろう。田中は1949年から50年にかけて約3カ月、アメリカに滞在し、帰国後に大バッシングを受けることになる。そのアメリカ滞在が監督進出への大きなきっかけにもなっていく。
 

ライター
鈴木隆

鈴木隆

すずき・たかし 元毎日新聞記者。1957年神奈川県生まれ。書店勤務、雑誌記者、経済紙記者を経て毎日新聞入社。千葉支局、中部本社経済部などの後、学芸部で映画を担当。著書に俳優、原田美枝子さんの聞き書き「俳優 原田美枝子ー映画に生きて生かされて」。

カメラマン
下元優子

下元優子

1981年生まれ。写真家。東京都出身。公益社団法人日本広告写真家協会APA正会員。写真家HASEO氏に師事

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