ゴジラ人形と本多猪四郎=東宝撮影所で1992年

ゴジラ人形と本多猪四郎=東宝撮影所で1992年

2023.10.31

元祖「ゴジラ」生みの親、本多猪四郎監督 「-1.0」公開でよみがえる作品に込めた思い「戦争の犠牲は庶民」

誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。

神保忠弘

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ゴジラの生みの親は誰か? 特殊技術の円谷英二監督を挙げる人は多いだろうし、映画製作に詳しい人はプロデューサーの田中友幸と答えるかもしれない。そして、もう一人、忘れてはいけない人がいる。第1作の「ゴジラ」(1954年)で本編を演出した本多猪四郎監督(93年2月死去)だ。筆者は本多監督が亡くなる約3カ月前の92年秋、ロングインタビューを行った。シリーズ最新作「ゴジラ -1.0」の公開を前に、特撮・SF映画の名監督が最晩年に語ったゴジラへの思いを、30年ぶりに振り返る。


 「ゴジラ-1.0」©2023 TOHO CO.,LTD.

被爆地の光景と重なった「G作品」

本多監督に、田中プロデューサーから「G作品」という名の企画が持ち込まれたのは54年の春のこと。これが「ゴジラ」だった。作家、香山滋によるプロットを読んだ本多監督の脳裏に、ある光景が鮮烈によみがえったという。「昭和21(1946)年、戦場から復員して東京に帰る途中、広島を汽車で通ったのです。その時、窓からチラリと見えた、あの悲惨な光景はね……」
 
「今後70年間は草も生えない」とまで言われた、すさまじい被爆地の惨状。ゴジラを原爆の象徴として捉えた本多監督は、「あのすごさをゴジラを通じて表現できないか」と考え、それが演出の基本姿勢となった。


広島原爆・爆心地の産業奨励館付近=1945年9月

「ゲテモノ」扱いにもひるまず

実は本多監督のもとに来るまでに「G作品」は複数の監督から断られていたという。「『こんなゲテモノ』と思ったみたいだね。けれど、僕には気恥ずかしさとかは全然なかったな。それよりも『ゴジラをどう表現するか』『主人公の科学者の性格はこれでいいか』とか作品に対する興味が次々と湧いてきた」
 
とはいえ本邦初の「水爆大怪獣映画」だ。何から何まで初めてのことばかりで、スタッフもキャストも戸惑うことが少なくなかった。その中で、本多監督が細心の注意を払ったのは「リアリティー」だった。
 
「あんなスゴいモノが現れたら人々がどう対応するかを、きちんと描くこと。自衛隊が出動するのも、ああいう怪獣が現れたら、やはり自衛隊が出て行くだろうと思って出したんです。特撮に関しては円谷さんに任せて、僕は特撮部分と本編部分が違和感なくつながることに気を使いました」


「ゴジラ-1.0」©2023 TOHO CO.,LTD.

病院の惨状に重ねた空襲後の焦土

リアリティー重視の意図が最もよく表れているのは、ゴジラによる東京襲撃後の病院のシーンだろう。廊下に所狭しとばかり並ぶけが人と被災者たち、親を亡くして泣く幼子、そしてガイガーカウンターによる検査で子どもが放射能に汚染されたことがわかる場面。それは映画公開のわずか10年前に、日本の各地で起きていた出来事を容易に想起させる。
 
「ゴジラの東京襲撃シーンが戦争中の空襲を思い起こさせると言われれば、そうかもしれない。戦争で一家のあるじを失った母子が出てくるところとか、病院のシーンには、特に戦争や空襲のイメージが強いかもね。それは演出上、意識したものです」
 

軍隊生活8年「犠牲は庶民」思い強く

リアリティーを支えたのは、本多監督自身の戦争体験だろう。本多監督は東宝(当時PCL)の助監督だった35年を皮切りに、計3度も陸軍に召集され、日中戦争に従軍した。「合わせて約8年間の軍隊生活ですからね。職業軍人以外で、こんなに務める人は少ない。耐えられたのは『戦争なんかで死んでたまるか。何としても国に帰って映画を撮るんだ』という気持ちですよ」
 
中国では、戦火に翻弄(ほんろう)される庶民の姿を間近で見た。終戦は現地で迎え、約半年の中国軍の捕虜生活の末に日本に引き揚げてきた。「戦争は庶民が一番犠牲になる。これが僕の戦争体験から得た気持ちですね。だから『原爆は戦争を終わらせるための必要悪』という意見には絶対反対だね」
 
本多監督だけではない。終戦から9年後に作られた「ゴジラ」は、製作スタッフもキャストも誰もが戦争経験者だった。主演の宝田明は、11歳の時に旧満州(現中国東北部)のハルピンで終戦を迎え、侵攻してきたソ連兵に右腹を撃たれるなど、壮絶な体験をしている。そんな人々が核兵器の恐ろしさを描こうと真摯(しんし)に取り組んだから、「ゴジラ」は映画史に残る傑作となったのだろう。


「ゴジラ-1.0」©2023 TOHO CO.,LTD.

怪獣中心にならざるを得なかった

54年11月3日に公開された「ゴジラ」は大ヒットした。観客動員数は800万人とも900万人ともいわれ、同じ年に東宝が公開した「七人の侍」(黒沢明監督)や「宮本武蔵」(稲垣浩監督)と興行成績トップを争った。しかし本多監督によれば、当時の批評家筋の評判は良くなかったという。やはり「怪獣映画なんてゲテモノ」という偏見が抜きがたくあったのだろうか。
 
「『人間が描けていない』とか『人間関係が型どおり』とかの批判を受けた。けれど僕にしたら、そんなに人間を描き込むと作品全体のバランスを崩すと思うんだよね。大変な怪獣が現れたのだから、作品中のすべてのものが、それを中心に動くのは仕方がないですよ。そのあたりが批評家の人たちとは意見が違ったんだろうな」
 
「ゴジラ」の成功によって、本多監督は東宝の特撮SF・怪獣路線のエースとなり、その後、数々の傑作・佳作を生み出していく。「もちろん『ゴジラ』は真剣に撮りましたが、自分にとって特別な作品だという意識はなかった。けれど、これがきっかけとなって僕の専門みたいになるジャンルと出合ったのだから、運命的なものを感じますね」
 

元祖の思いは「ハイテク描き込む」だったが……

インタビューの終盤、本多監督に「今(92年)、ゴジラを撮るとしたら?」と聞いた。「衛星監視システムとか、クローンとか、バイオテクノロジーとか、ハイテクをしっかり描き込むだろうなあ。それらとのゴジラの関係、絡みが面白いかもしれない」。本多監督は新作を作るなら、当時の最新の状況にゴジラを置き、最先端の科学と対峙(たいじ)させようと考えていた。
 
ところが最新作「ゴジラ -1.0」は、まったく逆の方法を選んだ。歴史をさかのぼり、終戦直後の日本に舞台を設定した。もちろん製作スタッフ、キャストには、太平洋戦争も、戦後の過酷な状況も、経験した者はいない。その中で、いかにして焼け野原の東京にゴジラが現れる状況にリアリティーを与えるのか。そして昭和の過去を舞台にしながら、令和の現代にどんなメッセージを伝えようとするのか。山崎貴監督の挑戦を、天国の本多監督は興味深く見守っていることだろう。

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ライター
神保忠弘

神保忠弘

じんぼ・ただひろ 毎日新聞社元運動部長、元同部編集委員。仕事につながっていた昭和のプロ野球をはじめ、昭和の芸人、昭和のプロレス、昭和のマンガ、そして何より昭和の特撮を愛する「昭和40年男」。

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