「ゴジラ-1.0」がヒット街道をばく進している。山崎貴監督は1954年公開の「ゴジラ」第1作を強く意識し、終戦直後の日本に「戦争の象徴」としてのゴジラを登場させた。初代ゴジラの生みの親の一人、本多猪四郎監督が1992年10~11月のロングインタビューで語った半生と映画への思いを、未公開の貴重な発言も含めて掲載する。「ゴジラ-1.0」を読み解く手がかりとなるコラムと合わせて、どうぞ。
2023.11.17
第2回 なぜ自分だけが? 応召3度 軍隊生活計8年
――日大芸術学部からPCLに入社してまもなく、最初の兵役に就いた。当時は徴兵制が敷かれ、男性には兵役の義務があった。本多監督は1度ならず3度も応召され、合計8年間を軍隊で過ごした。
昭和10(1935)年1月に第1師団第1連隊に入隊しました。兵役は義務だから仕方がない。とにかく1年半務めれば終わりだからと思って入隊したんです。ところが翌年の2月26日に226事件が起きてね。第1師団から2個中隊が反乱軍に参加したものだから、僕らの部隊も満州に派遣され、関東軍の配下に入れられてしまった。そこで昭和12年春に除隊するまで対朝鮮ゲリラの掃討戦を行ったんです。
昭和12年3月に撮影所に帰還しました。クロさん(黒澤明)は、僕がいない昭和10年(11年の間違い)に入社したんですよ。
「良人の貞操」主題歌の打ち合わせをする(左から)中山晋平、江戸川蘭子、高田稔、原作者吉屋信子、千葉早智子、入江たか子、山本嘉次郎監督=1937年2月
帰還して助監督 黒澤明と初対面
山本嘉次郎監督の「良人(おっと)の貞操」(37年)という作品に途中から参加しました。クロさんや谷口千吉君が助監督をしていた。クロさんとは、その時が初対面だったけど、ハンサムで笑うと愛嬌(あいきょう)のある男、という印象だったな。
それから伊丹(万作)さん、成瀬(巳喜男)さん、山本さん、山中(貞雄)さん、滝沢(英輔)さんなどに助監督としてつき、昭和13年にチーフ助監督に就任しました。昭和15年1月、山本さんの「エノケンのざんぎり金太」という作品のロケに参加している最中に、2度目の応召が来たんですよ。
まあ、2度目は揚子江沿岸の部隊で後方勤務だったんだけどね。そのころ感じたのは中国の人たちのおおらかさというか、土地に密着して生きている人たちの強さだね。僕は食料などの現地調達などの仕事もしたので、土地の人たちとの交流もあったんだけれども、彼らにとってみれば日本軍なんてのは大きな嵐みたいなものでね。いずれは去るものだと。それにくらべ、彼らはその土地に先祖代々から子々孫々まで生きていくわけだからね。時間の見方が非常に大きいですよ。
僕が現地調達の仕事をしているとき、上官が「土地から上がる穀物の70%を調達せよ」という命令を出すんですよ。僕が「そんなことをして、現地の住民は生きていく方法がありますか」と質問したら「そんなものはない」ときた。こんなむちゃをしているようじゃ、日本は勝てないと思いましたね。
まさかの3度目応召 「バカにするな」
昭和18年に山本さんの「加藤隼戦闘隊」の助監督を務めてね。翌年3月に封切りになったんですけど、同時に3度目の応召が来た。「バカにするんじゃないよ」と思った。まさか3度目が来るとは思わなかったなあ。逃げられるものなら逃げたかったですよ。けれど、その時はもう結婚していて家族もいたからねえ。泣く泣く行きましたよ。ええ、また中国です。それから終戦まで軍隊で過ごし、1年ぐらい中国軍の捕虜生活をして帰国したんです。
計約8年間の軍隊生活ですからね。職業軍人以外じゃ、こんなに務める人は少ないですよ。それに耐えられたというのはね。やっぱり「俺は何としても国に帰って映画を撮るんだ」という気持ちですよ。「戦争なんかで死んでたまるか」という気持ち。生き残って戦後の日本を見るまで死ねるか、ヒマラヤの山奥に逃げ込んででも生き延びてやる、と思っていましたからね。この信念があったからこそ、生き延びられたんだと思いますよ。
とにかく戦争というものは、庶民が一番犠牲になるんですよ。自分には何の関係もない遠方に連れて行かれて、苦労させられるんですから。戦争は最悪。絶対しちゃいけない。戦争の最大の悪は民衆を犠牲にすること。これが僕の戦争体験から得た気持ちですね。だから原爆は戦争を終わらせるための必要悪、という意見には絶対反対だね。そんなことを言っているから、武器が発達しきって、今じゃ地球が滅亡するぐらいの核兵器があるわけでしょう。冷戦が終わったからといっても、兵器がなくなったわけじゃない。そういったものへの恐怖感が「ゴジラ」には投影されていますよ。
1948年の東宝争議で、東宝砧撮影所に立てこもった組合員
ようやく終戦 撮影所は労働争議真っ最中
――1937年、PCLは東宝映画となり、43年に東京宝塚劇場と合併し、社名を現在の東宝に改めた。戦後の連合国軍占領下で映画界にも大規模な労働争議が起き、中でも東宝労組は先鋭的で、撮影所のストライキでは占領軍が出動する。闘争に嫌気が差した大河内伝次郎、長谷川一夫らスター俳優と渡辺邦男監督らが東宝を離れ、「新東宝」を設立した。
昭和21年6月に日本に帰ってきました。さっそく撮影所に行ったんだが、有名な東宝争議の真っ最中でね。とても映画を撮れるような状況じゃなかった。「なんだろうな」と思ったよ。戦争がやっと終わって帰ってきてみれば、今度は労働争議で映画が撮れないんだから。
労働組合と、これに反対する動きがあって大変だった。後に新東宝に行った人たちからの誘いもあったけれど、僕は乗らなかった。その代わり、山本さんやクロさんが作った映画芸術協会を手伝ったりした。身分は東宝の社員のままだったけれど、どうせ撮影所にいても仕事がないんだから仕方ないよね。クロさんの「野良犬」(49年)を手伝ったのは、このころだ。助監督としてB班を仕切りました。
クロさんは山本さんの影響か、「ここはB班で」と思うと、そのパートはB班に全部任せちゃうんだな。僕は東京の街を撮ってきてくれと言われて、数日間、隠しカメラでアメ横とかあそこらへんをグルグル回ったよ。僕は三船(敏郎)と同じ衣装を着て歩き回り、後から撮って回った。だから(三船が犯人を捜して街を歩き回る)あのシーンの三船は、実は僕なんだよ。
入社18年 「青い真珠」でついにデビュー
――1951年「青い真珠」で監督デビュー。同期の黒澤明や谷口千吉はとうに監督になっていて、遅いデビューだった。
文化映画なんかをしばらく撮ってね。昭和24年に、海女のドキュメンタリー映画で「伊勢志摩」というのを撮った。このときに使った水中カメラを使えないかと思って出した企画が、デビュー作の「青い真珠」なんですよ。山田克郎さんの直木賞作品「海の廃園」の映画化。そうしたら通ってね。第1回監督作品が決まった。
そりゃあ、うれしかったですよ。もう40歳だったからね。良いものを撮ろう、と意気込んでいた。けれど肩に力が入るようなことはなかったですよ。だって、周りはみんな顔見知りのスタッフや俳優ばかりだから、「ああ、今度は本多が撮ることになったのか」ぐらいの感じですよ。僕もわりと自然に演出できた。
「青い真珠」の脚本は、熱海の旅館でクロさんと一緒に書いたんですよ。その時にクロさんが書いていたのが「羅生門」なんだな。その日、その日に書き上がった分を互いに見せ合おうということだったんだけど、クロさんのを見せられることが多かった(笑い)。ただ、よく覚えているのは、クロさんが「君のファーストシーンが僕のラストシーンだよ」と言ったことだなあ。それだけ撮り方が違うということなんだろうね。それにしても「羅生門」のホン(脚本)は面白かったよ。
僕が描きたいのは大きな自然の中で点景としての人間がどう動くか、ということなんですよ。自然の中の人間。それに対して、クロさんはあくまで人間同士の葛藤を撮ろうとしていた。僕が撮りたいと思っているものと「羅生門」なんかは、まさに対照的でしたね。
つくづく思うのは、監督というのは年功序列なんかじゃできない、ということです。当たり前ですが、やっぱり才能が必要なんです。だから若くても才能のある人は、どんどん監督になる。クロさんを見ればわかるようにね。逆にどんなに助監督を長くやったからといって、監督になれるとは限らない。あれだけ長く助監督をやった僕が言うんだから間違いないですよ(笑い)。
邦画黄金期支える職人監督に
――この後、1年に2、3本ずつ作品を撮るようになります。日本映画界は黄金期にさしかかり、各映画会社が毎週新作を公開していた。撮影所もフル稼働で映画を作っていた時代だ。
「青い真珠」から、僕はいろいろなモノを撮っているけれど、これは会社(東宝)の「プログラムピクチャー的なものなら何でもこなせる監督を」という方針に従ったものですね。PCLでも山本さんとか稲垣(浩)さんとか、外から呼ばれた監督は「撮りたいものを撮る」という姿勢が尊重されていた。それに対し、僕らは「君らは幹部候補生なんだから」と言われて、会社の路線に従った形での仕事を求められましたね。生え抜きで、自分の撮りたいものを撮る、という姿勢を貫けたのはクロさんだけですよ。
いろいろ撮るといっても、もちろん、その中で得意不得意はあるわけだから、そのへんはプロデューサーが判断して「この脚本はあの監督に、この企画は彼に」と分配してね。とにかく、その当時は1年に70本も製作しているわけだから、ローテーションを組まなきゃこなせない。
そうは言っても、僕だって撮れないものは撮れない、と言いましたよ。(田中)友幸(ゆうこう)さんなんかは、僕のことを「頑固だ、頑固だ」と言うけどね。とにかく撮れないと思うものは断った。それは好き嫌いじゃなくて、苦手なモノに関しては責任ある仕事ができないと思うから断るんだ。例えば僕は時代劇が苦手だから1本も撮っていません。
僕は常に「観客の目」を考えるようにしていました。「今、お客さんは何を求めているのか」というね。会社の金で会社の作品を撮る以上、観客が楽しんでもらえるモノを撮らなければいけない。だから責任の持てない仕事はできないんですよ。
山本五十六主人公の「太平洋の鷲」
当時の東宝には、製作体制などによって厳然とA級、B級、C級という作品の違いがあった。「ゴジラ」は超A級でしたが、これは、ああいう作品になるとA級の製作費をかけないとできやしないんですよ。僕や丸山(誠治)君、松林(宗恵)君、古澤(憲吾)君なんかの、撮影所生え抜きの監督たちが、観客に楽しんでもらおうと必死になって撮っていたB級作品、あの作品群が日本映画を支えていたんですよ。
昭和27,28年ごろ、プロデューサーの本木荘二郎と組んで「神風特別攻撃隊」という映画の企画を立てたのだけど、会社側が時期尚早だとして没になりましてね。橋本忍が書いた「太平洋の鷲」(53年)という、山本五十六を主人公にした映画を撮ることになった。
戦争に反対だった山本五十六とはどういう人物か、興味が湧いたんです。映画はとてもヒットした。東宝の作品としては、初めて興行成績が億の単位に乗ったんじゃないかな。けれど批評は良くなかったなあ(笑い)。「人物が描けていない」とかいってねえ。しかし僕は、山本五十六が反対したにもかかわらず太平洋戦争に突入していったという、その大状況が描きたかったのであってね。山本五十六も、その状況の中の一人に過ぎないわけです。そこらへんが批評家と僕との意識の違いなんでしょうねえ。
僕(の作品)はその後も賞にはどうも縁がなかったが、観客は喜んでくれた。これはうれしいことです。とはいえ僕は、やはり小林(一三、東宝の設立者)さんが常々言っていた「ただ当たるだけではなく、いい作品を作ってほしい」という言葉を、とても大切に思っています。