「逃走」の足立正生監督(右)と主演の古舘寛治

「逃走」の足立正生監督(右)と主演の古舘寛治=鈴木隆撮影

2025.3.20

「逃走」逃げることが闘い、死が最後の闘争だった 足立正生監督がたどる桐島聡の49年

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筆者:

鈴木隆

鈴木隆

「逃走」は、指名手配されてから約49年間、逃亡生活を続けた桐島聡が主人公だ。桐島は東アジア反日武装戦線〝さそり〟のメンバーで、1975年の連続企業爆破事件に関わったとして全国に指名手配された。その後足取りが途絶えたまま、2024年1月25日に入院中の神奈川県鎌倉市の病院で自身の名前を名乗り、その4日後に70歳で死亡した。桐島は死の間際、なぜ医師に本名を明かしたのか、生涯をかけて追い求めたのは何だったのか。元日本赤軍の足立正生監督と桐島を演じた古舘寛治が、桐島の逃走と苦悩、決意に対峙(たいじ)して作りあげたものとは。


最期に名乗り「なぜ?」

「逃走」では、20代から30代後半の桐島を杉田雷麟、それ以降を古舘が演じた。桐島は数十年前から、神奈川県藤沢市の工務店で「内田洋」という偽名を使い住み込みの仕事に就く。ブルースやロックを好み時にはライブバーにも足を運ぶ一面もあったが、獄中闘争や超法規的措置で国外に出た者、自ら命を絶ったメンバーらを思い浮かべつつ、自らの闘争に自問自答を繰り返していた。70歳になった桐島は末期がんと診断され、病院で死の間際に「私は桐島聡です」と名乗り出る。

足立監督は、桐島が生きていて本名を名乗ったというニュースにショックを受けた。「なぜ、死を目前に名乗ったのか。本名を明かすことで逃走という形で闘い続けてきたことを世の中に知らしめ、自身の最後の闘争にしたかったのではないか、と考えすぐに脚本を書き始めた」。亡くなってわずか2日後だった。早速プロデューサーに連絡し、映画が動き出した。

仲間や友人、家族らと一切の連絡を取らず孤立した闘いを選んだことは分かっていた。最後の38年間に住んでいた工務店などのリサーチから始めた。「ラッキーだったのは藤沢で生まれて育ったある人物の案内で、桐島の住んでいたエリアや通っていた銭湯、飲みに行った場所などを見て回れた。川に近く在日朝鮮人が多く暮らしていて、工務店も道路の補修など小規模の仕事が多かったようだ。内田洋として生きた桐島の人のよさやモラリスティックなところも発見できた」。案内してくれたのは学校の先生で歴史学者でもあり「何度も一緒にライブハウスや飲み屋に行ったが、桐島とは全く気付かなかったようだ」と話した。


「逃走」©︎「逃走」制作プロジェクト 2025

古舘寛治の配役「顔」が決め手

古舘のキャスティングの理由を足立監督は「顔。映画のポスターやチラシにもある、真面目に考えている古舘さんの顔」と言い切った。オファーを受けた古舘は「正直、嫌なのが来たなって思った(笑い)。僕の言葉は活字になるとニュアンスが伝わりにくいから困るんだけど……」と言いつつ続けた。

「日本の俳優はほとんどしないが、僕は一時期政治的な発言をしていた。今回、いわゆる左翼的な監督が作る映画の、左翼的な人物を僕がやるのは、作品にとっても僕にとっても良くないと思い、困惑した。ただ、脚本を読んだら壮大なスケールで、ネットフリックスでもないとできないと思ったが、一応お会いした。『(桐島は)僕じゃないですよ。本は面白かったけど』と言ったのに、握手するしかないことになっていた」。足立監督にのみ込まれた感じですか、と聞くと「誰だってのみ込まれますよ。こんなすてきなおじさん、なかなかいない。断りようがなかった」と振り返った。

何にどう葛藤しているか

桐島という特異で謎に包まれた人物にどう迫ろうとしたのか。「本人に関することがほとんど残っていないやりにくさはあったが、逆にだからこそやりやすいとも考えた。足立さんが描く桐島で、フィクションの役を演じるのと、ほとんど変わらない。大変だったのは、主役で出番もセリフ量も多く、撮影期間も、休日も入れて11日間と短かったこと」と話した。

「カメラを通して、俳優さんの存在感がどれだけ役柄とダブっているかが大切。(古舘の)顔を見て『桐島がいる』とすぐに思った。どういう芝居をやってくれというのではなく、古舘さんがいれば桐島が存在する。それを見極めるのが監督の仕事。脚本も古舘さんへの当て書きふうに直した」と足立監督。「大事だったのは、49年間逃げている中で一番しんどいと思って耐えている表情に、桐島が守っているものが出ていることだった」

桐島が葛藤し逡巡(しゅんじゅん)しながら、自分のしていることに確信を持とうとしている姿を、古舘はどう演じたのか。「そこがこの映画の一番の肝。自分の生き方への葛藤を足立監督のフィクションの中に見つけていくシーンの連続だった」。酒を飲んで日常の喜びを追いかけたり、山歩きをしたり、僧侶と問答したりといった場面で、「何にどう葛藤しているかが一番重要だった」という。


「すごく真面目な人だった」

足立監督は東アジア反日武装戦線の一連の事件の際に日本にいなかったが「(当時の)新左翼や革命運動は、連合赤軍の同志殺しや三菱重工爆破事件など、闘うほどに間違ってしまう弱点を知ったうえで始めている。徒党を組まず、組織を作らないアナーキスティックな運動で、桐島もその中の一人。彼らの闘いの背後には1000人、2000人規模の運動家がいた」と位置付ける。「桐島は、死傷者を出した間違いへの償いの思い、自分が捕まれば多くのものが破壊されるといった考えから任務感が生まれ、存在意義と逃げ続けることの意味を見つけたのだろう」と語った。

一方、古舘は「桐島は、すごく真面目な人」と述懐する。「桐島はある意味、幸せだったのでは」と聞くと、「脚本は絶望だらけだが、そこに晴れ晴れとした希望のようなものが感じられるとしたら、足立監督が描いたから。足立監督という人間が作品の中に見える」と答えて、足立監督の笑いを誘った。「桐島は、自分が今一番できることを常に思い描いて生きた」

今の息苦しさに通じている

足立監督は当初から抱いてきた桐島への問いの答えを、こう結論付ける。「逃げることが闘いになった。死に直面して、闘ったことを証明するだけでなく、もう一度それを表現して、闘いをどうとらえるかというメッセージを全ての人に送りたかったのではないか。日々現れる気持ちの揺れ、苦しさ、切なさをどう自分のものにするかという、逃げるプロセスを最も大事にしていたのではないか。もちろん闘争の中で傷つけてしまった人への贖罪(しょくざい)の思いも込めたと思う」

最後に足立監督は、今を生きる若者に語りかけた。「桐島の49年間の苦しさは、今の若者が生きている社会の生きづらさに通じるのではないか。若者にそれを分かってもらえるまで、上映して回りたいと考えている」

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