「ゴジラの逆襲」の撮影現場で「この辺で四つに組んで顔はこっちを向いて」と演技指導する、特殊技術の円谷英二=東宝撮影所第8ステージで1955年3月

「ゴジラの逆襲」の撮影現場で「この辺で四つに組んで顔はこっちを向いて」と演技指導する、特殊技術の円谷英二=東宝撮影所第8ステージで1955年3月

2023.11.21

第3回 燃えた「G作品」 「ゴジラ」は原爆の象徴 反核運動と共に大ヒット

「ゴジラ-1.0」がヒット街道をばく進している。山崎貴監督は1954年公開の「ゴジラ」第1作を強く意識し、終戦直後の日本に「戦争の象徴」としてのゴジラを登場させた。初代ゴジラの生みの親の一人、本多猪四郎監督が1992年10~11月のロングインタビューで語った半生と映画への思いを、未公開の貴重な発言も含めて掲載する。「ゴジラ-1.0」を読み解く手がかりとなるコラムと合わせて、どうぞ。

神保忠弘

神保忠弘

――「ゴジラ」を監督したのは、デビューから3年目、1954年だった。原作は探検小説や幻想小説で活躍した小説家、香山滋(1904~75年)が担当、本多監督らが脚本を手がけた。
 
昭和29年の春でしたね。友幸さんから「G作品」という企画が持ち込まれたんです。これが「ゴジラ」でした。もう香山滋さんの原作プロットはできていたのですが、それを見て、すぐ「ゴジラというのは原爆の申し子だ」と思いました。気後れとか、気恥ずかしさみたいなものは全然なかったですよ。
 
他の監督には「こんなゲテモノ」と撮るのを断った人もいたみたいですが、僕にはなかったなあ。それより「原爆の申し子であるゴジラをどう表現するか」「主人公の科学者の性格はこれでいいか」など、作品に対する興味が次々と湧いてきて、気後れなんか感じているヒマはなかった。とにかく原爆というもの、人類が絶対に作ってはならないもの、その象徴としてのゴジラというものに、すごく興味が湧いたね。
 
何から何まで初めてのものだから、いろいろな苦労はありました。僕が気をつけたのは、登場する人物がリアリティーを失わないこと。それと、あんなスゴいモノが現れたら、人々がどう対応するか、ということをキチンと描くこと。自衛隊が出てくるのも、ああいう怪獣が現れたら、やはり自衛隊が出て行くだろう、と思って出したんです。特撮に関しては円谷(英二)さんに任せた。僕は円谷さんと相談して、特撮部分と本編部分が違和感なくつながるよに気を使いました。
 

復員の帰路に見た広島の惨状

――「ゴジラ」は1954年11月3日、東宝によると観客動員数961万人と大ヒット。この年の3月、操業中の日本の漁船「第五福竜丸」が、米軍がビキニ環礁で行った水爆実験で被爆する事件が起き、反核運動も盛り上がる。
 
ゴジラというのはね、やっぱり何といっても原爆の象徴なんですよ。僕は復員して東京に帰る途中、広島を汽車で通ったのですが、その時、窓からチラリと見たあの悲惨な光景はね……。「今後70年以上は草も生えない」と言われた、あのすごさ、あれを「ゴジラ」で表現できないか、と思った。第1作の「ゴジラ」で、ゴジラの東京襲撃シーンが戦争中の空襲を思い起こさせると言われれば、それはそうかもしれない。戦争で一家の主を失った母子の出てくるところとか、ゴジラが海に帰った後、病院の廊下にズラリと並べられたけが人の列とか、ああいったシーンには特に戦争や空襲のイメージが強いかもしれない。だとしたら、それは演出上、意識したものですね。
 
この時も「人間がよく描けていない」とか「主人公たちの人間関係が型どおり」とかの批判を受けたけれど、僕にしたら、そんなに人間を描き込むと作品全体のバランスを逸すると思うんだよね。とにかくゴジラという大変な怪獣が現れたのだから、作品中の全てのものが、それを中心に動いていくのは仕方ないと思うのですよ。そのへんが、また批評家の人たちとは意見が違ったんだろう。
 
しかし、ヒットしましたよ。「ゴジラ」が公開された昭和29年というのは、「七人の侍」(黒澤明監督)と「宮本武蔵」(稲垣浩監督)があるという、東宝にとって大変な年だったのだけれども、「ゴジラ」はその2本と興行成績トップを争ったんだから。人によっては「七人の侍」がトップだと言ったり、ある人は「いや、『ゴジラ』がトップだ」と言ったりするけれども、要はそれだけヒットしたということですね。
 
僕自身、「ゴジラ」を撮っている間は、それはもちろん真剣に撮っていましたけれども、特別な作品という意識はなかった。それまでこなしてきたさまざまな作品の一つだった。けれど、これがきっかけとなって、特撮SF・怪獣物という僕の専門みたいになるジャンルと出合ったのだから、今になってみると運命的なものを感じますね。


広島原爆・爆心地の産業奨励館付近=1945年9月

擬人化されても原点忘れず

――「ゴジラ」はシリーズ化され、翌年には「ゴジラの逆襲」(小田基義監督)が公開。本多監督も次の「キングコング対ゴジラ」(62年)、「モスラ対ゴジラ」「三大怪獣 地球最大の決戦」(64年)、「怪獣大戦争」(65年)、「怪獣総進撃」(68年)、「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」(69年)、「メカゴジラの逆襲」(75年)まで、7本の監督を手がけた。
 
ゴジラのキャラクターは「キングコング対ゴジラ」から変化します。それまでの恐怖の対象的なキャラクター性は薄れていく。まあ、キングコングと戦うとなれば、中心となるのは怪獣同士のプロレスだからね。特にキングコングのような擬人性の強いキャラクターと戦うとなれば、ゴジラも擬人化されざるを得ない。石を持ち上げて投げたりしてね。ただし、そうなると原爆の恐怖とかは、やはり薄れてきちゃう。それでも僕は演出するときに「ゴジラは原爆から生まれてきたんだ」という一線を忘れたことはないですよ。
 
けれど、それも「三大怪獣 地球最大の決戦」ぐらいまででね。あとは段々と怪獣が存在理由を失っていきます。怪獣は最初からこの世界にいるものだ、となんてしまってね。なんで怪獣がいるのか、という点がおろそかになっていってしまうんだね。
 
いまゴジラを撮るとしたらね。やっぱり衛星監視システムとか、そういったハイテクをしっかり描き込むだろうなあ。そういったものとゴジラの関係をね。あとクローンとかバイオテクノロジーとのゴジラのからみなんかも面白いかもしれない。最近のゴジラ映画も見ているけれど、製作についてはアドバイスを求められることはないですよ。僕のアイディアは金がかかりすぎるから(笑い)。
 

題材求めスクラップ100冊

――本多監督は「ゴジラ」シリーズの他に、「空の大怪獣ラドン」(56年)、「地球防衛軍」(57年)、「ガス人間第一号」(60年)、「モスラ」(61年)、「妖星ゴラス」(62年)など、多くの怪獣もの、SFものを撮ってきた。
 
僕はSF映画を撮るときには、必ず現実に可能性があるものを取り上げたいと思う。だから、毎日の新聞から新しい科学情報なんかがあると切り取っています。それこそスプートニクの打ち上げからアポロの月着陸、脳死や臓器移植の問題、毛利(衛)さんのスペースシャトル飛行まで切り取っているから、スクラップはもう100冊ぐらいあるんじゃないかな。
 
徹底的に資料を集めて、頭の中でイメージを養うんです。「妖星ゴラス」の中で科学者が会議をしている背景の黒板に書き込まれている数式は、会議の内容に合わせて東大の先生に書いてもらったものです。SF映画を支えるのは、こういった姿勢だと思う。
 
――「ゴジラ」では、戦前から映画の特殊撮影の技術開発を続けてきた円谷英二が、特撮を担当している。
 
映画界の先輩ですから、尊敬していましたよ。あの人は徹底的に工夫する人です。脚本なんかで、特撮的にすごく難しいところがあると、僕なんかは心配するのだけど、あの人は工夫に工夫を重ねて、何とかしちゃうんですよ。僕が心配すると「今はできなくても、必ずやるから」と言ってね。

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ライター
神保忠弘

神保忠弘

じんぼ・ただひろ 毎日新聞社元運動部長、元同部編集委員。仕事につながっていた昭和のプロ野球をはじめ、昭和の芸人、昭和のプロレス、昭和のマンガ、そして何より昭和の特撮を愛する「昭和40年男」。

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  • 「ゴジラの逆襲」の撮影現場で「この辺で四つに組んで顔はこっちを向いて」と演技指導する、特殊技術の円谷英二監督
  • 特撮スタジオで怪獣に囲まれて映画について語る、円谷英二監督
  • 広島原爆・爆心地の産業奨励館付近
  • 広島市の爆心地から300メートルのビルは一片も残さず吹き飛び、鉄筋がアメのように曲げられている
  • 「モスラ」に出演したザ・ピーナッツ。伊藤エミ(右)とユミ
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