「第2回 毎日映画コンクール表彰式」でトロフィーを手に記念写真に納まる(左から)新人演技賞の若山セツ子、男優演技賞の森雅之、女優演技賞の田中絹代=帝劇で 1948年(昭和23年)2月3日

「第2回 毎日映画コンクール表彰式」でトロフィーを手に記念写真に納まる(左から)新人演技賞の若山セツ子、男優演技賞の森雅之、女優演技賞の田中絹代=帝劇で 1948年(昭和23年)2月3日

2022.2.13

毎日映コンの軌跡⑰ 復活した「新人賞」 現在は男女1人ずつ

「毎日映画コンクール」は1946年、戦後の映画界復興の後押しをしようと始まりました。現在では、作品、俳優、スタッフ、アニメーション、ドキュメンタリーと、幅広い部門で賞を選出し、映画界の1年を顕彰しています。日本で最も古い映画賞の一つの歴史を、振り返ります。毎日新聞とデジタル毎日新聞に、2015年に連載されました。

毎日映画コンクールの新人への賞は、第2回(1947年度)で「新人演技賞」が設けられ、若山セツ子が選ばれた。しかしこの回限り、以後長く中断した。「スポニチグランプリ新人賞」として再生したのは、第38回。この回を機に毎日映コンの拡充が図られている。

石油ショックなどのあおりを受けた70年代、事業主体である毎日新聞社の経営状態が悪化し、毎日映コンの規模も縮小された。第26回から助演賞を廃止、第30回からは選考を討議から投票方式へと変更。80年代に経営が上向き、スポーツニッポン新聞社も運営により深く関与するようになった。第38回では、同新人賞と「外国映画ベストワン賞」創設のほか、討論選考への回帰、助演賞の復活などが決められた。選考委員にも20代の映画評論家が加わるなど、刷新を強調している。

同新人賞の最初の受賞者は、「十階のモスキート」「性的犯罪」の崔(さい)洋一監督と、「時をかける少女」でデビューした当時高校1年の原田知世だった。また特別賞が金子正次に贈られている。金子は脚本を書き、主演したヤクザ映画「竜二」の公開直後、83年11月に急逝した。折しも映画界は、新しい才能が次々と登場していた。崔は大島渚監督らの助監督を経て映画デビュー、金子は全くの自主製作で「竜二」をヒットさせた。原田は角川書店が、筒井康隆の原作本と映画を相乗効果でヒットさせるという戦略から生まれたアイドルだ。

新人賞は第60回から、男女優1人ずつとなった。近年は子役から芸能活動を始めたり、テレビドラマなどで人気を得てから映画デビューしたりする俳優が増えた。毎日映コンは“新人”を厳密に定義せず「対象作品でデビューまたはそれに準ずる俳優」としているが、どこまでを“新人”とみなすか、選考委員を悩ませている。