「僕のヒーローアカデミアTHE MOVIE ユアネクスト」

「僕のヒーローアカデミアTHE MOVIE ユアネクスト」©︎ 2024 「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE」製作委員会 ©︎ 堀越耕平/集英社

2024.8.02

【微ネタバレ】ヒロアカ好きライターが見た劇場版新作の〝隠れた闇深さ〟 「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ユア ネクスト」

誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。

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堀越耕平による漫画「僕のヒーローアカデミア」が、連載10周年にして完結を迎える(8月5日発売の「週刊少年ジャンプ」にて。全430話)。その前週である8月2日には、劇場版第4弾となる「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ユア ネクスト」が公開。テレビアニメ第7期も現在放送中であり、盛り上がりは最高潮といっていいだろう。


原作の〝間〟 ダークマイトの台頭を描く

少年ジャンプ作品のアニメ映画化でいうと、「ハイキュー!!」や「鬼滅の刃」「呪術廻戦」は原作エピソードの映画化、「ONE PIECE」は基本的には原作とは直接絡まない単独作品といった違いがある。「僕のヒーローアカデミア」の映画版は中でも少し特殊で、原作エピソードの〝間〟を描く物語がこれまで展開してきた。映画版オリジナルキャラクターが後から漫画本編にも登場するなど、スピンオフ漫画も含めたユニバース的な位置づけといえる。

そうした前提の下、最新作である「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ユア ネクスト」では最終決戦の直前に生じた〝猶予/準備期間〟に時系列を設定し、「実はそこでこんな大事件が起こっていたんですよ」という物語が展開。平和の象徴だったヒーロー、オールマイトが事実上の引退をしたのち、彼に憧れて自らを「ダークマイト」と名乗る悪漢が混乱に乗じて台頭。オールマイトから〝次〟を託された教え子・緑谷出久(デク)たちが凶行を止めようとする――というのが大筋となる。

そういった意味では彼らの歩みに沿ったストーリーなのだが、本作のターゲットは堀越の「長期連載されている作品だからとあまり気構えず、軽い気持ちで観(み)にきてください」のコメント通りコアよりもライトからミドルに設定されており、がっつり原作やテレビアニメ本編に影響を及ぼすわけではないため、ビギナーでも理解できる「ドラマ<アクション」な仕様になってはいる。とはいえ原作のガチファンとしては、ウエートを置ききれていない部分にこそ心を動かされる作品であり、本稿ではその点においてわずかなネタバレを織り交ぜながら紹介したい。


オールマイトに偽装したビラン

本作の舞台は、死柄木弔/オール・フォー・ワンという有史以来最悪レベルの敵(ビラン)の蹂躙(じゅうりん)によって、秩序が崩壊した日本。人々を束ねる〝象徴の不在〟が深刻化するなか、ヨーロッパ系最大の犯罪組織が乗り込んでくる。しかもそのボスは〝個性〟によって自らの容姿を平和の象徴=オールマイトそっくりに変えていた――つまり「暴走する狂信者(フォロワー)」を描いた相当シリアスな物語なのだ。
 
一個人がヒーローというシンボルとなることで悪の抑止力として機能する設定は「ダークナイト」が象徴的であり、その逆、つまり悪のカリスマが犯罪を助長させてしまう展開は「ジョーカー」が好例。「ユア ネクスト」の場合は厄介なことに、ヒーローに憧れたビランが「オールマイトが平和の象徴となったのは強いからだ」とその義勇の〝心〟でなく〝力〟に固執してしまう。出久たちに「自分勝手に暴力をふるうのは間違っている」「オールマイトとは似ても似つかない」と言われるが、ダークマイトは彼らを「旧態にしがみつく愚者」と切り捨てる。
 
その割に、周囲を納得させるだけの説得力を持った彼なりの正義があるわけではなく、むしろ自分が他者を支配したいだけの薄っぺらい人物に見えてしまうのが、かえって恐ろしい。つまり、ダークマイトの中に欲望はあっても信念がないため、「ヒロアカ」の隠れたテーマである〝対話〟が成立しないのだ。


〝心〟が追いつかない〝力〟の暴走

原作の名ゼリフで「理解できなくていい。できないからヒーローとビランなんだ」というものがあるが、これはおのおのに確固たる信念があればこそ成立するもの。それぞれの主張が確立しているため対話は平行線となり、争うしかなくなるのだ。そして、本編では方向性こそ違えど強い「心」の持ち主に即した「力」が宿り、人々が追随するため争いが巨大化するという側面も描かれており、単なる善悪二元論では測れない「答えではなく、問いかけ」のドラマが生まれていた。

対してダークマイトはその深度が圧倒的に浅く、そのくせアンナという強個性の持ち主を手中に収めてしまったため、人の上に立つ=象徴となる器ではないのに他者を蹂躙できてしまう。しかも本人は「自分こそが正義だ。次の象徴は俺だ」と信じ込んでいるため手の施しようがない(劇中では部下が忠誠ではなく恐怖で従うシーンも)。ある意味、これまでの「ヒロアカ」にはいなかった「心が追い付いていない」ビランなのだ。そのうえで実におぞましいシーンとして、焼け野原のようになった日本に上陸した侵略者であるダークマイトが「新時代に必要なのは破壊。まさにスクラップアンドビルドだ」と主張したり、出久との初対面でチョコレートを振る舞おうとしたりするシーンが描かれる。さらりと流されている向きもあるが、見る人によっては現実の戦後日本を想起させる強烈な描写といえるのではないか。

「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ユア ネクスト」は、こうしたダークマイトの〝稚拙さ〟によって、「ヒロアカ」自体のテーマ性を逆説的に補強している。前述した部分にも付随するが、「象徴を一個人が担うべきなのか?」という問題だ。オールマイトは絶対的な存在であり、彼のおかげで平和や秩序は保たれていた。ただそれは一個人に依存する社会でもあり、独裁者を擁立しかねない危うさもはらんでいる。そうならなかったのは、ひとえにオールマイトの〝心〟が不世出の英雄だったからだ。

「アベンジャーズ」と共振するテーマ

ここで思い出すのは、「アベンジャーズ」シリーズの一作「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」。同作ではヒーロー集団アベンジャーズの強大すぎる力を危険視し、国連の管理下に置くプランが描かれる。これもまた、「ヒーローをヒーローたらしめているのは個々人の心(正義感)でしかない」という真実に言及している。「スパイダーマン」シリーズの名言「大いなる力には、大いなる責任が伴う」も同じ文脈といえるだろう。

さらに、象徴の不在によっておこる〝跡目争い〟の物語といえば「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」にも通ずる。こちらではキャプテン・アメリカという象徴なき後、本人に後継を託された親友サムと政府が擁立した2代目、テロリスト集団の思惑が交錯するのだが、差別や排斥といったアメリカの歴史をオーバーラップさせつつ、正義を問い直す社会派な内容だ。


社会の安全は誰が守るべきか

「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ユア ネクスト」は表面的には「力をまねただけでは真の象徴にはなれない」というメッセージを提示しているが、もう一歩踏み込んで考えると「現行の体制が変わらなければ、今後もダークマイトのような正義をはき違えた人物が出てきてしまう」危険性を浮き彫りにしてもいる。そこに対する答えが、出久の「次は僕〝たち〟だ」であり、一強ではなく社会を構成する皆で担うことでスパイラルを終わらせる――という原作の最終地点に帰結するのだ。

そもそも「僕のヒーローアカデミア」は、ヒーローを資格制の職業という設定にしており、訓練を積んだプロが法にのっとり、無法者と対峙(たいじ)することでバランスを保つという前提が敷かれていた。人前でみだりに力を行使してはならないし、戦闘時も市民や建物への被害・損害を最小限にとどめた戦い方を徹底的にたたき込まれる。そうしたシステムの整備によって、「ダークナイト」であったような、バットマンの偽物である自警団が「何様のつもりだ。俺と何が違う?」と問う、といった事態を避けていたのだ。その平穏が破壊された状況で、海の向こうから侵略者が襲来し、次代を担うおのおのがヒーローの在り方を再定義する――そんなミッションもひそかに設定されている気がしてならない。

「僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ユア ネクスト」は、夏映画にふさわしい爽快なバトルエンタメ映画だ。しかし原作を履修したうえで臨むと、その奥に隠された「戦うことの是非」という深遠なテーマにまで目が行くことだろう。ヒーローの真の目的――その本質は、戦うことではないのだ。

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ライター
SYO

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1987年福井県生まれ。東京学芸大学にて映像・演劇表現を学んだのち、映画雑誌の編集プロダクション、映画WEBメディアでの勤務を経て2020年に独立。 映画・アニメ、ドラマを中心に、小説や漫画、音楽などエンタメ系全般のインタビュー、レビュー、コラム等を各メディアにて執筆。トークイベント、映画情報番組への出演も行う。

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