誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
2023.9.23
無実の黒人はなぜ殺されたのか リアルタイムで体感する人種差別の恐怖 「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」
モーガン・フリーマンが製作総指揮を務めた「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」が公開中だ。黒人に対する人種差別の撤廃を訴えたBLM(Black Lives Matter)運動に関連したニュースが頻繁に日本にも届くようになって久しいが、また新たに、2011年に実際に起きた事件を描いた今作が、正面から受け止めることのなかなか難しい現実を突きつける。
「キリング」とは、直訳すると「殺害」という意味だ。映画のタイトルとして、そのままの意味でのみ込むにはあまりに生々しい。見る側としては、原題のKillingのままであることでほんの少しだけ柔らかい印象になったように感じるが、映画の中身はそうはいかない。
2011年11月19日午前5時22分からの98分間
双極性障害(そううつ病)を患う黒人の元海兵隊員ケネス・チェンバレンが、過って医療用通報装置を発動させてしまい、その後、安否確認のために来たはずの白人警官に射殺されてしまう。その時何が起こったのか。なぜケネスは殺されなければならなかったのか。
ケネスの医療用通報装置の誤作動が起きたのが11月19日の午前5時22分。気温も急激に下がってくる初冬の早朝だ。装置を設置したライフガード社から通報が入り、警察官が安否確認のためにケネスの家に到着したのが午前5時半。警察官は3人、いずれも白人だ。ドアをノックして、通報のあった住宅の安全を確認する。
ここまでは至って普通で、彼らは善良な警察官のようにさえ感じる。しかし見る側にとっては、この後に殺人が起きてしまうことが分かっているので、何がどうなって最悪の結末を迎えるのかと想像をかき立てられ、緊張感の中で登場人物の行動一つ一つに自然に目が行ってしまう。手持ちカメラで登場人物に寄ることで、感情がダイレクトに伝わり、更なる臨場感を生んだ効果も大きいだろう。
悲劇までの絶望的なカウントダウン
通報は誤作動だから何も問題はない、だから帰ってほしいとケネスは言う。しかし警察官は、何かやましい事情があって警察を家に入れないのかと疑い、帰ろうとしない。このあたりから、黒人というだけで何かしらの罪を犯しているかもしれないと決めつける白人警官の偏見が表面化しており、「このまま何も起きないでほしい」と心中で祈っていた観客も、結末までのカウントダウンが始まってしまったことを嫌でも感じてしまう。
ケネス自身も、過去に差別されてきた経験から警察に良いイメージを持っておらず、家に入れることを拒絶して、なおさら事態の悪化に拍車がかかってしまう。最終的にケネスが殺されてしまうのが午前7時。医療装置の誤作動から98分後のことだ。
「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」は83分と尺は短めで、劇中で進行する時間との間に大きな差がなく、リアルタイムに近い映画になっている。つまり、ケネスが誤作動を起こしてから殺害されるまでの時間が、いかに短いかを体感できるということだ。張り詰めた緊張感の中での鑑賞は実際よりも短く感じたし、当のケネスにとっては極限状態の恐怖で更に短く感じたかもしれない。
「デトロイト」の事件から半世紀
筆者は鑑賞後に疲労感があるのは良い映画の証拠だと考えているが、この映画はそれがあるのはもちろん、凄惨(せいさん)な事件の内容といまだ終わりの見えない人種差別問題の根深さで、望みを絶たれたような気持ちになる。この絶望感は、同じく黒人差別を題材にしたキャスリン・ビグロー監督の「デトロイト」(18年)や、スパイク・リー監督の「ドゥ・ザ・ライト・シング」(1989年)に近いかもしれない。
しかし「キリング・オブ・ケネス・チェンバレン」は、この2作とは時代が異なるということに注目しておきたい。「デトロイト」は67年のデトロイト暴動を題材にした映画であり、「ドゥ・ザ・ライト・シング」は80年代のブルックリンが舞台となっている。ケネスが殺害された11年の事件とは30年以上も隔たりがあるのだ。
オバマ大統領誕生から2年後だった
しかもこの11年というのは、バラク・オバマが黒人初のアメリカ合衆国大統領となって2年後の年。「CHANGE」というスローガンで選挙戦を戦い、就任後もリーダーシップを発揮したこの黒人大統領に、多くの人が人種差別問題の改善を期待していた年なのだ。ケネスの事件は、そんなタイミングで起きてしまった。
白人警官の侵入が目前に迫ったケネスは錯乱し、ライフガード社の電話担当者に「オバマ大統領、助けてください」と懇願する。ケネス自身も黒人大統領の誕生を喜び、自分が身を置く環境の改善を期待したのかもしれないということが見えるシーンだ。その期待を裏切るような事態に、ケネスも観客も次第に失望していく。
映画史に残るさまざまな名作に出演してきた実績を持ち、人種差別問題にも度々言及してきたモーガン・フリーマンはこう語っている。「この映画は、法執行官がいかに間違ったアプローチをしているかを真にドラマチックに描いたものです。そして、この事実を広めることが私たちにできる最善の方法だと思います」
我々に何ができるか
我々は映画を通してその「事実」を知ったことで、今後の行動の選択肢を増やせるはずだ。
映画の中でも最悪の事態を避けようと奮闘した登場人物は少なくない。誤作動によってつながったライフガード社の電話担当者、警察官の一人、近隣住民、そしてケネスの家族。もし誰かがあそこでこうしていたら、もしあそこでその選択をしなかったなら、ケネスは死なずに済んだかもしれないと考えさせられるシーンが多々あった。
ほんのささいなことがきっかけで結末が変わる可能性があるのなら、この事件を、「実際に起きた事件」としてだけ受け止めるのは、あまりに簡単過ぎるのではないだろうか。