「雪の花 ともに在りて」

「雪の花 ともに在りて」©2025映画「雪の花」製作委員会

2025.1.30

黒澤明の弟子が描く「雪の花」の心優しき人々 「チャングムの誓い」の限界を乗り越えた江戸の町医者

誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。

筆者:

洪相鉉

洪相鉉

2024年末、BS日テレで再び放送を開始した韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」のタイトルロール、チャングムの正確な身分は「医女」である。朱子学が非常に重視されていた朝鮮で、女性が男性に肌を見せることを極端に禁じたために登場した女性の医者。医女はやがて朝鮮から姿を消すが、その根本的な理由は、朝鮮医学の中心だった「民族医学」、すなわち漢方医学では、現代医学で言うところの予防と対症治療に重点を置くほかなく、病気の原因への直接的接近が不可能だという指摘を受けたことだった。漢方医学は人体の臓器を五行(木火土金水)になぞらえて観念的に説明した「五臓六腑(ごぞうろっぷ)」の概念を根拠としており、西洋医学における解剖学という実証的探求に基づいた外科的施術のすべを持たなかったのだ。


日本と朝鮮 種痘法の始まり

ところで、「種痘法」という単語を聞くと、筆者の頭に池錫永(チㆍソクヨン)の名前が浮かぶ。漢方医にして韓国語学者という変わった肩書を持つ彼は、映画「マルモイ ことばあつめ」が描く朝鮮語辞典の発刊に参加した周時經(チュㆍシギョン)の同僚であり、開化期の朝鮮に種痘法を導入した人物だ。1879年に日本海軍が建てた釜山の官立済生医院長の松前讓と軍医の戸塚積斎に2カ月間学んで痘苗と種痘の二つを習得し、ソウルに帰る途中、40人余りに打った。これが朝鮮半島での種痘法の始まりとなった。

「宮廷女官チャングムの誓い」と「マルモイ ことばあつめ」。二つの作品を連想させる問題を自分のものとして悩み、解答を探した人物が描かれた「雪の花 ともに在りて」を筆者は心待ちにしていた。


生きる日本映画史、小泉堯史監督の新境地

演出を担当したのは、筆者には生きている日本映画史そのものに感じられる小泉堯史監督である。世界映画史の巨匠・黒澤明の撮影現場で助監督としてキャリアを築き監督となったのは彼だけではない。しかしその中でも、巨匠の助監督として映画人生を終えようとしていたにもかかわらず、その遺作を完成させるために監督となり、「デビュー」が「継承」のような意味を持つ例は珍しい。

そして「雪の花 ともに在りて」は、2014年の「蜩ノ記」で始まった「小泉クラシックシリーズ」の4本目であるが、これまでとは異なる特徴を持っている。前作「峠 最後のサムライ」までの小泉クラシックシリーズは、「美しい死のメッセンジャー」の侍が登場する時代劇だった。すなわち、死を猶予してもらった主人公が花火のような最後を観照し(「蜩ノ記」)、死んだ妻の願いとして生き続ける夫が涙ぐましい命の意味を伝え(「散り椿」)、幕末の荘厳なフィナーレを象徴するかのように、一人の武士が自分の火葬の仕度を命じる(「峠 最後のサムライ」)。

本作は、死に傾いているはかりの上に立った主人公を登場させて淡々とした悲哀で胸を揺さぶるのではなく、主人公が生命のために死と戦う、活力に満ちた「人生賛歌」である。ここにも小泉監督なりの「生命の美学」への一見識がうかがえる。例えば「明日への遺言」で筆者の目頭を赤くしたのは、戦争犯罪人として処刑された岡田資の死ではなく、生まれたばかりの彼の孫が裁判所を訪問し、冷たい視線で一貫していた裁判官の人間的な姿を引き出すシーンだった。


循環する善 歴史的事実

そんな小泉監督の寵児(ちょうじ)として登場した町医者ヒーローの笠原良策は、天然痘で多くの家族が断腸の別れをする惨状を目の当たりにして新知識の必要性を痛感する。明恵上人の歌が懸け橋となって蘭方医の大武了玄と出会い、名医として名高い日野鼎哉に師事し、人生の第2幕を始める。牛痘を打たれることを縁起の悪い邪行と考え、無知な町医者による「子供だましのカラ騒ぎ」に格下げしようとする役人との戦いに挑む。

同作の特徴は、全てが「善循環」であることだ。一瞬も夫の善意を疑わず、彼の最も強力な支持者になる妻、突然現れた男を弟子とし、息子のように信頼し全てを教える師匠、名誉を懸けて彼を後押しする友人、そしてとてつもなく大きな心で決定的な感動を与える隣人など、登場人物のほとんどが主人公の味方になる。さらに驚くべきは、この美談が歴史的事実であること。知っていることのディテールの確認であっても、事実から受ける感動の重さは相当である。何の事前知識もなく見に来るなら、感動はさらに大きいかもしれない。
 

「悪人」が登場するから現実なのか

いつも筆者が思い浮かべる実際の経験がある。プログラムアドバイザーとして赴任した年、新型コロナウイルスが猛威を振るい無観客で行われた韓国・全州国際映画祭で出会った諏訪敦彦監督から聞いた一生の名言。筆者が招待した諏訪監督の「風の電話」は、あまりにも善良な人ばかりが登場し、童話的に感じられるという感想について諏訪監督はこう語った。

「それは非現実的でしょうか? 通常のドラマツルギーにのっとって映画を撮ると、さまざまな困難と危険に遭遇し、乗り越えてゆく主人公の葛藤を描く必要があるでしょう。しかし、それは現実よりも、むしろドラマチックな物語の要請によるものです。私はそのような『悪人』を知りません」

とどのつまり、完成度の高い優しい映画が新たに誕生したのである。実に意味深いことではないか。戦争と葛藤に満ちた世界で未来が分からない今日を生きる我々にとって、どれほど慰めになるか。生きる力を得るために2000円という観覧料は決して高くない。

告白すると、筆者は「雪の花 ともに在りて」を劇場でもう一度見なければならない。スクリーナーで、途中何度も止めながら見たためだ。分析のため? いや、小泉監督の映画を見終わるのがもったいなかったのだ。

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  • 第37回東京国際映画祭のレッドカーペットに登場した「雪の花 ともに在りて」の(左から)芳根京子、松坂桃李、小泉堯史監督
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