公開映画情報を中心に、映画評、トピックスやキャンペーン、試写会情報などを紹介します。
2023.8.04
「濱マイク」プロデューサーの古賀俊輔氏、横浜・シネマ・ジャック&ベティ支配人対談秘話続々!
1993年に誕生し、94年に1作目が公開された林海象監督の「私立探偵 濱マイク」シリーズの4Kデジタルリマスター版が、7月28日から全国の映画館で上映されている。スケジュールは劇場によって異なるが、「我が人生最悪の時」「遥かな時代の階段を」「罠 THE TRAP」が順に上映される予定だ。詳細は「私立探偵 濱マイク」公式サイトの劇場情報でご確認をhttps://hamamaiku-30th.jp/。
林監督が書いた1枚のプロットから生まれた「濱マイク」を誕生時から見てきたプロデューサーの古賀俊輔氏、そして、物語の舞台となった横浜・黄金町の横浜日劇(以下、日劇)の魂を受け継ぐ映画館「シネマ・ジャック&ベティ」の支配人・梶原俊幸氏に、制作裏話や「濱マイク」シリーズの功績について語ってもらった。
林海象監督の構想メモから発掘された〝 私立探偵 濱マイク〟
「濱マイク」シリーズは監督の林とプロデューサーの古賀氏が知り合いで、製作を音楽会社であるフォーライフ・ミュージックが担当し、日劇の当時の支配人・福寿祈久雄氏が撮影に協力してくれたことから誕生。何一つ欠けても実現しなかった、奇跡のような一作だった。
古賀 林監督とは永瀬正敏さんが出演していた「アジアン・ビート」(林氏らの原案)という作品を通して知り合い、その後、僕がフォーライフ・ミュージックに転職したことから「濱マイク」シリーズが誕生しました。実は社長から新規事業を立ちあげて欲しいと言われてたので、それなら映画がやりたいと。もちろん失敗したらクビですが、本当にやりたかったので進退をかけて、海象さんに話を持ちかけたことが「濱マイク」の始まりとなりました。
すると林監督は一つの段ボールを持ってきて、こう言った。「この中にあるのは全部僕の企画やプロットだから(好きにしていい)」と。その中に「日劇の2階に住んでいる探偵の話」という1枚ペラの構想メモのようなものがあり、面白いと感じた古賀氏はこの企画を進めていく。
古賀 それと同時期に海象さんの元に、雑誌「BRUTUS」にあった「夢の企画」というコーナーの話が持ちかけられました。実現してもしなくてもいいので、やってみたい作品を1枚絵で表現するという企画だったので、当初からマイク役に決まっていた永瀬さんを日劇前に連れて行って撮影し、その写真が載った雑誌を持って、会社の最終プレゼンに挑み、映画化が決定しました。
決定の話を聞いた福寿支配人は「ぜひやろう!」と乗り気で、撮影に全面的に協力してくれることになった。
梶原 日劇の向かいにあったのがシネマ・ジャック&ベティで、福寿さんは両方の支配人をされていました。実はジャック&ベティは一時閉館していたのですが、別会社が再開させた後、我々が閉館した日劇の意志を引き継ぐ形で2007年から運営しています。私はそこからの支配人ですので、残念ながら撮影や公開当時の事は知らないのですが、伝説の作品であると伝え聞いています。
古賀 福寿さんは、当時、「黄金町を映画で浄化する」とよくおっしゃっていました。当時の黄金町は正直、怖かったんです。1作目の撮影の際には、ガラの悪い人たちに撮影を邪魔されたこともありましたし、夜には道の角に女性が立っている街でしたから。
梶原 僕は東京出身ですが、母の実家が横浜なので、よく遊びに行っていましたが、黄金町には近づくなと言われていました(笑い)。
古賀 だから、福寿さんは「何度でも撮影に協力する」とおっしゃってくださったんです。その心意気を感じて、我々も黄金町の街並みをリアルに映画内で使用しようということになりました。
梶原 横浜で撮っている映画はたくさんありますが、街をそのまま使用しているものはないと思います。普通は角を曲がると別のロケ地の道に変わっていたりしますが、「濱マイク」は本当の道につながっている。ですから、街は少し変わりましたが、来ていただくと映画の雰囲気を味わうことができるのではないかと思います。
横浜・黄金町が舞台になったのは、林監督が「黄金町という名前の町って、どんなところだろう?」と町を訪れ、日劇を見つけたことがきっかけだったという。
古賀 海象さんは、「すごい。こんないい劇場があるんだ!」と思ったそうです。そうして、プロットを思いついたので、日劇ありきの濱マイクだったんですね。実は探偵事務所のセットは日劇の2階部分を取り壊して作ったので、撮影後も映画を見に行って後ろを向くと探偵事務所があったんです。そんなこと普通ないですよね(笑い)。探偵事務所の中には映画館と同じ椅子が並んでいて、そこから映画が見えるようになっていました。マイクがそこに座って映画を見ていたという設定に合わせて、窓がちょうどシネスコサイズになっていたんですよ。それにしても撮影のために2階を潰したのですから、日劇さんには本当に感謝です。
キャラクターやストーリーにちりばめられたリアル
濱マイクのキャラクターは、アメリカの推理小説「探偵 マイク・ハマー」や林監督が好きな探偵たちのエキスが注入されて構築されている話は有名だ。加えて、林監督だけでなく、永瀬さんも探偵学校で学んだこともよく知られている。
古賀 日本探偵協会(現・株式会社児玉総合情報事務所)の方々には、撮影でも指導をしてもらったり、道具を貸してもらったり、2作目には本物の探偵に警察役で出てもらったりしました。微妙にリアルを混ぜ込んでいるんです。遊び心ですよね(笑い)。実は海象さんと一緒に僕も日本探偵協会を卒業しているので、皆さんと面識があります。亡くなった児玉道尚会長は映画をご覧になって、「探偵はこんなに派手じゃない」と言われましたが、面白がってくれました。
そして、1作目のストーリーの構築には、意外な人物も関係している。「ヤンヤン 夏の想い出」などで知られる台湾のエドワード・ヤン監督だ。
「我が人生最悪の時」
古賀 ストーリーのもともとの発端は、ヤン監督の「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」にあります。映画撮影時に海象さんと永瀬さんがたまたま台湾にいたので、少し出演したのに結局カットされたという笑い話があるのですが、その時に2人をケアしてくれたスタッフが日本に留学経験のある方で日本語が話せたそうなのです。そのスタッフの楊さんから帰り際にもらった手紙に海象さんが感激し、そこから1作目のストーリーを膨らまし、楊さんにも本名のままで出演してもらったのです。
「我が人生最悪の時」が台湾との共同制作となった背景には、こんな関係性があったのだ。ちなみに台湾ロケの際にはヤンの事務所が全面協力をしてくれたという。モノクロ映像ということもあり、台湾のシーンはとてもノスタルジックな雰囲気に仕上がっているが、実は1作目だけモノクロなのには、理由があった。
古賀 制作当初から映画の歴史をたどる3部作にしようと決めていました。だから、「我が人生最悪の時」は、モノクロのシネマスコープだったんです。その次の「遥かな時代の階段を」は期限切れのカラーフィルムで撮り、総天然色のような、かすれた色合いを狙いました。つまりカラーの最初の色を目指したのですが、試写をしたら残念ながらきれいな色で、みんなで「あれ?」となっちゃいました(笑い)。そして、3作目の「罠」は、きれいなカラーにしようとしたんです。
美術や衣装だけでなく、デザインや音楽にもこだわりを注入!
この3部作の“仕掛け”は、ポスターデザインにも生かされている。
古賀 フォーライフ・レコードで映画会社ではありませんので、独自の人材に制作を依頼しました。ポスターデザインは3作通して同じ女性のデザイナーさんが作っているのですが、普段はCDジャケットやブックレットを作っている方なんです。彼女に先ほどの仕掛けを伝えてデザインしてもらいました。だから、3作目の「罠」が一番色を発光させているのだと思います。思い返せば、既存の映画らしくないことを徹底していました。最初から3部作にしたり、次のストーリーが固まっていないのに予告編を付けたり、音楽もそうです。
「罠」
「濱マイク」シリーズを語るのに、音楽は欠かせない要素だ。その裏話も伺おう。
古賀 レコード会社がダサい音楽を作るわけにはいかないですから(笑い)、音楽チームの予算を別から引っ張ってきて捻出しました。おそらく、あの規模の映画の音楽予算は200万円ぐらいだと思いますが、1000万円かけたんです。実は音楽家たちに生でセッションしてもらったんです。セッションしたものをその場で映像にハメて、「あ! 俺のラッパで車が発進してるから、もうちょっと強めに!」などというふうに確認しながら録(と)り直していったんです。そして、同じ曲でも3部作全てで録り直しました。なぜかというと尺が違うから。全部演奏し直して、アレンジも変えています。これはレコード会社だからこそできたことだと思いますね。
若い制作陣の熱意が大物俳優たちを動かした
1作目撮影当時、林監督は35歳、助監督の行定勲氏は20代半ば、制作担当者は19歳だった。その制作陣たちの若い勢いはそのまま作品の熱量となり、俳優や事務所を動かす力にもなっていったらしい。
古賀 キャストは基本的に林監督が案を出しました。佐野史郎さんは海象さんの作品の常連ですし、鰐淵晴子さんや千石規子さんも海象さんとのつながりがあったと思います。そして宍戸錠さんは、僕と海象さんの2人で口説きに行きました。そこで宍戸さんに「君たちは俺の何がほしいんだ?」と聞かれた時に、海象さんが「エースの錠がほしいです」と言ったんです。そうしたら、「中途半端なことはするな。役名を宍戸錠にしろ」とおっしゃってくださったので、役名も宍戸錠になり、頭に♠︎が入ることに。そして、「若いやつは応援したい」と、出演してくださることになりました。
一方、マイクの昔なじみのタクシー運転手・星野を演じた南原清隆は、古賀氏のアイデアだった。
古賀 ウッチャンナンチャンとしてすでに人気を博していた南原さんは、自分はお笑いのイメージが強いから映画がダメになるのではないかと気にしていました。しかし、僕は役者として出てもらいたい。だから、目立つ宣伝はさせないという約束で出てもらいました。当時はまだ南原さんの役は固まっていませんでしたが、「それならマイクとコンビにしよう」と海象さんがどんどん話を膨らましていったんです。
そして、3作目の「罠」には、すでにヒットドラマの常連だった山口智子、夏川結衣なども参加した。
古賀 こんなインディペンデントの映画によく出てくれましたよね? 山口さんは「遥かな時代の階段を」の初号試写に、知り合いの衣裳さんに呼ばれていらしたんです。その後に飲みに行ったら、山口さんが「出たい!」と言ってくださって。本当かな?と思いながら、台本はある程度固まっていたのですが、役を考えました。どうせなら、他の作品で山口さんが絶対にやらないであろう役をやってもらおうということになり、断られる覚悟でオファーをしたら、引き受けてくださいました。夏川さんは、僕からの提案でした。所属事務所に確認を取ったら、すでに別の作品の打診が来ていたのですが、「フォーライフさんということは、〝 濱マイク〟ですか?」と言われて、「それなら、一度会いましょう」となり、出演していただけることになりました。3作目となると、皆さん作品をご存じで話が早かったです。
90年代らしいエッジの利いたイベントや仕掛けで作品を盛り上げた
作り手たちの熱量はファンの心をつかみ、1作目はシネスイッチ銀座で3カ月ロングラン、94年の単館系ナンバー1映画になった。映画の評判が広まった背景には、イベントなどの仕掛けも大きく影響しているのではないかと古賀氏は語る。
古賀 「我が人生〜」を上映している時に、「遥かな~」の撮影をしていたので、映画を見終わって日劇の外に出てくるとそこで撮影が行われていたんです。お客さんからすると、今、スクリーンで見ていた濱マイクが目の前にいるわけですよ(笑い)。そんなことがあったら、面白いのではないか?というアイデアを実現していました。あと、会員になると次回作にエキストラとして参加できる、探偵倶楽部というものを作り、日劇のお客様に呼びかけたりもしました。皆さん、本当にエキストラ出演してるんですよ。それから、3作目「罠」の公開前日に東京の九段会館でイベントもしました。そのメインはコンサートでした。「罠」のレコーディングを終えたミュージシャンたちが「本当にこれで終わりなのか。コンサートがやりたい」と言うので、「遥かな〜」を上映しながら音を消して劇中に流れる音楽を全部生演奏してもらったんです。
梶原 シネマコンサートですね。
古賀 そうです。1996年ですから、僕たちが最初だったと思います(笑い)。イベントには宍戸さんや南原さんも来てくれて、入り口前では映画と同じようにいか八朗さんがマイクの愛車メトロポリタンを拭いている。
梶原 そんなイベント、なかなかできないですよ。
古賀 ないですね。でも、やろう!と言って実際に動いてしまうのが、この作品らしさであり、90年代のパワーだったように思います。
4Kデジタルリマスター版がキラーコンテンツを鮮やかに甦(よみがえ)らせる
「濱マイク」シリーズが持つパワーや、映画としての面白さは30年たった今でも色あせない。映画館の支配人を務める梶原氏は、そのことを強く感じているそうだ。
梶原 「濱マイク」シリーズは、上映すると必ずお客様が入るキラーコンテンツですし、上映に伴ってイベントをすると作品に関わられた方がよくいらしてくださいます。皆さん、濱マイクのことになると途端に熱くなるんですよ。塚本晋也監督とか、とても誇らしげに語られるので、皆さんにとって貴重な存在なのだろうなと感じます。
古賀 ジャック&ベティでは、年に1回か、2回は必ず上映してくれるんですよね。それから梶原さんがつながっている地方の映画館でもよく上映してくださるんです。
梶原 ミニシアターがある互いの町を象徴する映画を上映し、地域間のつながりをはかる「地域交流上映会」をしているのですが、上映作品について相談するとすぐに「濱マイク」シリーズの名前が出るんです。ですから、地域交流上映会の際には、たびたび上映させていただいてます。
古賀 ありがたいことです。
それが今回、30周年を記念して、4Kデジタルリマスター版として劇場で上映されることになった。それはファンだけでなく、古賀氏、梶原氏にとっても心躍ることだという。
梶原 映画館の2階に探偵事務所があるという設定自体が、映画館応援プロジェクトのような映画だと思います。ミニシアターは現在も厳しい状況にありますので、ぜひ映画館で見ていただいて、映画館を救うことにつながってくれたらうれしいですね。もちろんジャック&ベティでも上映しますので、ぜひお越しください。うちには横浜日劇の懐かしのアイテムがロビーに展示してありますので、そちらもぜひ見てください。
古賀 絶対映画館に行って欲しいです! 関わった作品が30年たって、また映画館で上映してもらえることは僕たちにとって勲章のような出来事ですが、お客様に見ていただくことが一番重要ですから。初めての方には何だろう、これ?と興味を持っていただけたらうれしいですし、公開当時に見た方には懐かしい!と見ていただけたら、それもうれしいです。本当に画質がきれいになっているので、ぜひ見てほしいです。また、ジャック&ベティでは、テレビ版のDVDとは異なるテレビ放映版も上映します。濱マイクという作品が映画版とテレビ版一緒になって、また広がっていってくれるとうれしいなと思いますので、ぜひご覧ください。
古賀俊輔
株式会社ザフール プロデューサー・代表取締役。1994年公開の映画「私立探偵 濱マイク 我が人生最悪の時」で、初めて映画プロデューサーを務める。以後、「私立探偵 濱マイク」(映画&テレビ版)、Netflixオリジナル「火花」、映画「ナラタージュ」「殿、利息でござる!」「母性」など、数々の映画をプロデュースしている。
梶原俊幸
シネマ・ジャック&ベティ 支配人。株式会社エデュイットジャパン 代表取締役。黄金町エリアの町おこし活動に参加したことをきっかけに、2007年、横浜シネマ・ジャック&ベティの運営を引き継ぎ、株式会社エデュイットジャパンを設立。支配人となる。19年、第68回横浜文化賞 文化・芸術奨励賞受賞。