「毎日映画コンクール」は1946年、戦後の映画界復興の後押しをしようと始まりました。現在では、作品、俳優、スタッフ、アニメーション、ドキュメンタリーと、幅広い部門で賞を選出し、映画界の1年を顕彰しています。日本で最も古い映画賞の一つの歴史を、振り返ります。毎日新聞とデジタル毎日新聞に、2015年に連載されました。
2022.2.14
毎日映コンの軌跡⑨ 田中絹代 女優人生を変えた渡米
毎日映コンに賞の名称としても名前の残る田中絹代(1909~77年)。14歳で松竹に入社しデビュー、黎明(れいめい)期の映画界でスターとなった。日本で2人目の女性監督としても6作品を残している。映コンでも第2回(47年度)で初の女優賞受賞者となって以来、計5回女優賞を獲得。いまだ破られぬ大記録である。
映コンは田中の女優人生に大きな影響を与えた。47年12月、毎日新聞紙面に「三名を米国へ映画コンクールの個人賞」との記事がある。米ハワイの映画興行会社の松尾達郎が、映コンに日米映画人の交換招待への協力を求め、第2回の監督・俳優賞受賞者に米国訪問の副賞を贈ることになったのだ。結局翌48年、第3回「夜の女たち」で連続受賞した田中が渡米することになった。海外渡航が厳しく制限されており、戦後初の渡米女優だった。
49年10月21日、田中は羽田空港を出発、ハリウッドでジョーン・クロフォードらスターと会い、ハワイでの公演もこなして、約3カ月後の50年1月19日に帰国する。渡航中は毎日新聞に現地便りを寄稿し、帰国第1作を松竹と新東宝のどちらが獲得するかでも注目されていた。
帰国した田中はすっかり変わっていた。旅立った時の着物姿は、洋装にサングラス、ハリウッド仕込みの派手な化粧となり、集まった群衆に投げキスで応える。この変貌(へんぼう)ぶりが「アメリカかぶれ」と揶揄(やゆ)され、帰国直後の松竹「婚約指環(ゆびわ)」、新東宝「宗方姉妹」も不評。「明眸(めいぼう)老いたり」と酷評され、人気も急落した。
しかし田中はそのままで終わらなかった。51年の成瀬巳喜男監督「銀座化粧」、52年の溝口健二監督「西鶴一代女」で絶賛され、復活。53年には、訪米中に読んだ記事に刺激を受けたこともあり、「恋文」を初監督。映コンでも第12、第15回で女優助演賞、第29回で演技賞を受賞した。