「名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN」

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2025.3.07

この1本:「名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN」 心揺さぶる人間の「顔」

毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)、屋代尚則(屋)、坂本高志(坂)。

現代の生ける伝説というべきボブ・ディランの伝記映画である。物語は1961年のニューヨーク、若きディラン(ティモシー・シャラメ)が、敬愛するウディ・ガスリー(スクート・マクネイリー)を訪ねるところから始まる。闘病中のガスリーと親友ピート・シーガー(エドワード・ノートン)の前で弾き語りを披露したディランは、類いまれな才能を見抜いたシーガーに後押しされ、プロのフォーク歌手への道を歩み出す。

米アカデミー賞主演男優賞にノミネートされたシャラメの演技、歌声が抜群に素晴らしい。キューバ危機、JFK暗殺、公民権運動などの激動の時代を背景に、「風に吹かれて」をはじめとする名曲の数々を惜しげもなく歌う。

さらにジョーン・バエズ(モニカ・バルバロ)、ジョニー・キャッシュ(ボイド・ホルブルック)といった当時の大物ミュージシャンが登場。バエズ、芸術家シルビー(エル・ファニング)との微妙な三角関係も描かれる。優れた楽曲を次々と世に送り出すディランはまさに天才で、野心的にして奔放な青年としてスクリーンを駆け抜けていく。実に見事な構成で、目も耳も奪われる場面の連続だ。

ジェームズ・マンゴールド監督の手腕も見逃せない。とりわけ筆者の脳裏に焼き付いたのは64年、ニューポート・フォーク・フェスティバルで「時代は変る」を歌うシーン。歴史的発明を目撃するかのような会場の高揚感とともに、舞台袖や客席からディランをまぶしげに、複雑な思いで見つめるバエズ、シルビーの表情の何という美しさ。人間の「顔」にこれほど心を揺さぶられる描写はめったにない。

やがて世間から時代の代弁者と見なされたディランは、型にはめられるのを嫌い、パブリックイメージを覆そうと自己変革を実行する。そして誕生したのが、エレキギターをフィーチャーした大ヒット曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」だ。大観衆のただならぬ熱狂と罵声が入り交じるクライマックスのパフォーマンスも圧巻で、あっという間の2時間21分である。東京・TOHOシネマズ日比谷、大阪ステーションシティシネマほかで公開中。(諭)

ここに注目

「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」ではジョニー・キャッシュを主人公に音楽伝記映画を手がけたマンゴールド監督が、有名なエピソードをつないで手堅い音楽映画に。正面から描いたがゆえ若干の物足りなさも感じたが、まさに〝名もなき者〟だったディランが恋や出会いを経験していく場面に、青春映画としてのみずみずしさがある。何よりも素晴らしいのは、歌と演奏に磨きをかけたシャラメのパフォーマンス。コンサートの場面は新しい時代の風が吹く瞬間の興奮が伝わり、完全に心を奪われた。(細)

異論あり

並べてみればそんなに似ていないのに、スクリーンではディランの雰囲気そっくり。ギターとハーモニカを習得し歌声まで似せたシャラメも、吹き替えなしで演奏し歌ったというノートンら共演者も圧巻だ。さすがハリウッド。ただ画面の重厚さの割に、映画はあっさり味。無名の若者が才能を伸ばし、圧力をはね返して我が道を進む。三角関係も大事に至らず乗り越える。音楽家の伝記映画には孤独と破滅が付きものだが、本作はむしろ一直線の成功物語。だって事実なんだから、と言われればそれまでだが。(勝)

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