「名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN」

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2025.2.22

ノーベル文学賞推薦人も目撃者だった「名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN」ボブ・ディランがロックに詩人の魂を吹き込んだあの日を描く

音楽映画は魂の音楽祭である。そう定義してどしどし音楽映画取りあげていきます。夏だけでない、年中無休の音楽祭、シネマ・ソニックが始まります。

筆者:

北澤杏里

北澤杏里

ボブ・ディランの映画「名もなき者」の試写を見終わってほっとしたのは、私だけだろうか? この映画は1961年、ディランが19歳のデビューする前から、フォークギターをエレキギターに持ち替えた65年、伝説のニューポート・フォーク・フェスティバルまでの4年間を描く。このフェスでエレキを持ったディランに対して大ブーイングが起こり、「裏切り者!」「ユダ!」と音楽史上最悪のヤジが飛んだことは有名だ。

ベトナム戦争や核の恐怖、人種問題などでアメリカ社会が揺れ動いていた60年代。ディランの反体制的な詩は反戦運動の象徴として扱われていた。社会派のフォーク愛好者たちにとって、ディランはフォークのプリンスであると同時に反戦運動の仲間だった。そのディランが突然ビートルズやストーンズのようにエレキギターで爆音を放ったものだから、ブーイングが巻き起こったのだ。ディランのひょう変は、青天のへきれき。彼らにとって衝撃以外の何ものでもなかった。


ディランの共演バンドはブルース界の革命児たち

この日のステージで、ディランと共に演奏したのは、「ポール・バターフィールド・ブルース・バンド」である。ポール(ボーカル・ハーモニカ)はアーバンブルースの本拠地シカゴで育ち、シカゴ大学在学中に同じシカゴ生まれのマイク・ブルームフィールド(ギター)と、オクラホマ出身のエルビン・ビショップ(ギター)と出会い、バンドを結成。人種差別が激しい当時のアメリカで、白人が黒人のブルースを演奏することなどなかった。彼らはそんな時代にエレキでブルースを演奏し始めた白人最初のブルースバンドだ。彼らブルース界の革命児たちは10代でマディ・ウォーターズのステージに飛び入り演奏していたほど、その実力が突出していたため、後に白人のブルース・ロックをけん引し、やがてロックの殿堂入りすることになる。65年当時のストーンズと聴き比べると、ストーンズがポップなのに対して、彼らは重厚で大人びたブルースを演奏している。
 
私が心配したのは、これほどの実力を持ったバンドの取り扱いについてだった。実は2024年にNHKで「アナザーストーリーズ ボブ・ディラン~ノーベル文学賞原点のステージ~」という番組が放映された。この時、NHKは「ポール・バターフィールド・ブルース・バンド」をディランのバックバンドとして紹介したのだ。史実をねじ曲げた決定的な過ちに私とバターフィールドファンの友人は大憤慨した。事実、彼らはフェス1日目にポール・バターフィールド・ブルース・バンドとして登場しているのだから、ディランのバックバンドと紹介するのは、太陽は西から昇ると言うのに等しい。
 
映画の試写に早々に出向いたのも、その一点を確かめるため。もちろん結果はOKだった。映画はアメリカ人の脚本家や監督によるものだから、その点を間違えるはずもない。ポールも、すご腕のギタリストのマイクも、黒人ドラマーのサム・レイも、そしてソロのアル・クーパー(ギター・キーボード)も短時間だけれど、その役名でスクリーンに登場している。
 

圧倒される吹き替えなしの演奏と歌唱

驚くことに、映画「名もなき者」に吹き替えはいっさいない。若き時代のディランを演じるティモシー・シャラメも、ジョーン・バエズ役のモニカ・バルバロも、ディランと共にブルース・ロックを演奏するポール・バターフィールド・ブルース・バンド役の面々も、この映画のために歌と演奏を一から学んだハリウッドの俳優たちだ。そのプロ顔負けの演奏力と歌唱力は圧巻。ハリウッドの俳優陣の層の厚さと実力には圧倒される。

シャラメの声は、ディランよりほんの少し甘いけれど、ほぼそっくり。目つきは本人よりも鋭いため、当時のディランの社会への批判的な精神を表しているようでとても好感が持てる。映画「エルヴィス」も当人が生き返ったかと錯覚するほどだったが、こちらも同じく、若き日のディランの生き様が肌に伝わってくる。

フォークから新たなサウンド表現へ

この映画で、人間の心理や差別や偏見、戦争や世の中の不条理を、絵画を描くように思慮深い言葉で語る詩人ボブ・ディランの魂に出会える。名曲「はげしい雨が振る」がキューバ危機のさなかに生まれたことや、「風に吹かれて」がアメリカ公民権運動の賛歌になっていたことも描かれている。
 
61年、ニューヨークにやってきた無名の彼は、フォーク歌手で活動家のピート・シーガーとの出会いによってデビューし、フォークの女王ジョーン・バエズと共演し、たちまち人気者となってフォークのプリンスと呼ばれるようになる。しかし、ディランはやがてフォークという狭い箱に入れられ、社会派のファンたちからプロテストソングを期待されることに反発するようになっていく。
 
変化は、若者の特権だ。65年、彼はエレキギターのプラグをアンプに差し込むことを決意し、夏フェスの1カ月前にポール・バターフィールド・ブルース・バンドのメンバーをスタジオに呼んで名作アルバム「追憶のハイウェイ61」のレコーディングを決行した。ディランは、新しいサウンド表現にブルース界の革命児たちのサウンドを取り入れることを選択したのだ。

ロックに〝魂〟が吹き込まれた瞬間

映画では語られていないけれど、当時のディランはジョン・レノンと親密で、音楽的な影響を受け合っていた。ディランはレノンに、ポップスターとしてではなくアーティストとして自分自身を受け入れるように促し、ディランはレノンからポップな感性を学んだと言われている。ラブソングを歌っていたビートルズが内面に向かう歌詞を書くようになったのは、ディランの影響を受けてのことだ。その影響はデビッド・ボウイにも及んだ。つまり、ラブソングが中心だった当時のロックンロールに〝詩人の魂〟と革命的なブルースサウンドを持ち込み、思慮深いロックへと変化させたのは、ボブ・ディランだった。

65年の7月。ニューポート・フォーク・フェスのラストステージで大ブーイングが巻き起こる。それをものともせず、ディランとブルームフィールドのイカしたエレキギターがうなりをあげる。バックステージではフェスの主催者ピート・シーガーがアンプからプラグを引き抜こうとして躍起になっている。そんな騒ぎのなかで新曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」「マギーズ・ファーム」「悲しみは果てしなく」がハイピッチで、成層圏を貫くほどの大音量で演奏された。この電撃シーンこそ、ロックに〝魂〟が吹き込まれた歴史的な瞬間である。
 
ちなみにボブ・ディランは2016年、彼の詩の文学的価値が認められ、ノーベル文学賞を受賞した。ディランをノーベル文学賞に推薦した人物はアメリカ現代詩の研究者ゴードン・ボール。彼は65年の夏、ブーイングの嵐のなかでエレキを持ったディランのサウンドに衝撃を受けた青年の一人だった。

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