「TAR/ター」 © 2022 FOCUS FEATURES LLC.

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2023.5.19

この1本:「TAR/ター」 権力者の失墜に浮かぶ闇

毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)、屋代尚則(屋)、坂本高志(坂)。

クラシック音楽界を舞台としたサイコスリラーにして音楽映画でもあり、実録風に業界の内幕にも迫る。そのどれもが一級品。失墜する権力者の肖像を圧倒的な筆致で描き出し、長尺もあっという間である。

ベルリン・フィル初の女性常任指揮者、ター(ケイト・ブランシェット)は順風満帆。いくつもの有名交響楽団を率いた華麗な経歴を持ち、自伝の出版を控え翌月にはベルリン・フィル初のマーラーの交響曲第5番のライブ録音が決まっている。有能な秘書フランチェスカ(ノエミ・メルラン)と共に楽団の実務もこなし、一緒に暮らす楽団のバイオリニスト、シャロン(ニーナ・ホス)と養子のペトラを育て、私生活も充実していた。

才能と実績に裏打ちされ、ターは絶大な権力をほしいままにする。楽団の人事で大なたを振るい、教壇に立てば学生を徹底的に論破して教室から追い出してしまう。高みに立って自らの王国を支配するその姿勢は、ハラスメントに他ならない。と書けば傲岸不遜な嫌なヤツだが、この人ならば仕方あるまいと思わせるのは、ブランシェットの品と巧みな人物造形のおかげ。

完全無欠に見えたターの人生はしかし、小さな不協和音によってきしんでいく。かつてインターンとして指導した学生からの、執拗(しつよう)な嫌がらせメールが続く。フランチェスカの不審な言動に戸惑わされる。やがて才能豊かなチェロ奏者オルガ(ソフィー・カウアー)の登場で、いよいよ調和が乱される。

ターの世界の崩壊を表した映像も見もの。寒色系、無機質な調子とシンメトリーの構図は、初めは完璧な美しさとして映るものの、ターが追い詰められるにつれて威圧的なよそよそしさへと印象を変えていく。クラシック音楽界の裏話が実名を交えて挿入され、演奏場面ではブランシェットの指揮でオーケストラが音を出した。細部に至るまで作り込まれ再現されて、ターの世界に真実味を与えている。

ターの失墜はおごりによる自滅か、権力が持つ魔にのまれたのか。闇は深い。トッド・フィールド監督。2時間38分。東京・TOHOシネマズ日比谷、大阪・TOHOシネマズ梅田ほかで公開中。(勝)

ここに注目

「リトル・チルドレン」以来、16年ぶりにメガホンを取ったフィールド監督は、終始一貫してカメラの冷徹な視点を保ち、不穏な空気感の映像を創出した。完璧主義者のターが築き上げた日常の秩序が、謎めいた不協和音の混入によって揺らぎ出す描写の繊細さ、不気味さがすごい。クラシック業界の内幕ものとしての面白さにとどまらず、スリラーや異常心理ドラマとしても傑出したできばえだ。嫉妬や疑念が渦巻くターとの微妙な関係性を表現したニーナ・ホス、ノエミ・メルラン、新人のソフィー・カウアーという女優3人のキャスティングも秀逸。(諭)

ここに注目

権力を振りかざす者が行き着く先は、一体どこなのか。一人の芸術家が不遜な言動の積み重ねによって堕(お)ちていく様を、フィールド監督は皮膚や聴覚に直接訴えかけるようなスタイルで伝え、見る者をダークで魅惑的な沼へと引きずり込む。ターがバッハへの見解を異にする学生を追い詰めていくシーンの威圧感もさることながら、娘をいじめたクラスメートを脅すシーンでは、あまりの恐ろしさに笑ってしまった。ケイト・ブランシェットは、もはや一つのジャンルかもしれない。指揮のシーンも含め、俳優のすごみをたっぷりと味わえる一本だ。(細)