誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
2024.5.27
「関心領域」この例えようのない後味の正体は、脳にこびりついた誰かの叫び声だ
衝撃的で、例えようの無い後味
第96回アカデミー賞にて、国際長編映画賞と音響賞の2部門を受賞した「関心領域」。〝今世紀最も重要な映画〟〝どんなホラー映画よりも恐ろしい〟、そう映画評論家に言わしめた衝撃作だ。第二次世界大戦下のアウシュビッツ強制収容所と隣り合わせで生活していた家族にスポットライトを当てた105分間は、私にとっても確かに衝撃的で、例えようの無い後味を残している。
背後に立ちのぼる煙と漂う異様な気配
舞台は1945年のポーランド郊外。アウシュビッツ収容所の所長、ルドルフ・ヘスとその妻ヘートヴィヒら家族は、収容所と壁を隔てたすぐ隣の家で幸せに暮らしていた。我が子の笑い声、おいしい食事、美しい庭、立派な屋敷。穏やかで平和な生活を送る彼ら。その背後に立ちのぼる煙と漂う異様な気配に、私たちは何を感じるのか。
不気味に鳴り続ける低い音
アウシュビッツでの残酷な出来事やホロコーストの残忍さは大前提の上で描かれる、幸せな家族の様子。彼らに焦点を当てることで、壁の向こう側の地獄を間接的に際立たせるこの構成自体、冷静に考えて相当グロテスクである。作中では処刑シーンなどを具体的に表現しないため、私たちはその残虐な場面を自らの意思で想像せざるを得ない。生々しい描写がないのに、なぜこんなにも恐怖を感じるのか? ここで触れたいのが音響だ。他愛ない会話や虫の声の奥で、大きくなったり遠くなったりしながら、不気味に鳴り続ける低い音。これは焼却炉で人が焼かれている音か? 銃声か? 今まさに処刑されようとしている人の叫び声か? 言葉が理解できなくて良かったとまで思うほど、おぞましい想像をかき立てる音響は、この作品を成り立たせる重要な要素である。そして何より恐ろしいのは、観客の脳に直接響くこの音が、ヘス一家にとっては雑音でしかないことだ。
映画のメッセージを端的に伝える
誤解を恐れずにいうと「関心領域」という邦題に、私はずっとしびれている。原題の”The Zone of Interest”は、アウシュビッツ強制収容所群を取り囲む40平方キロメートルの地域を指す、ナチス親衛隊が使った言葉だという。原作である同名小説のタイトルに、この表現を採用した著者マーティン・エイミスの言葉選びの感覚は見事だ。戦争や紛争を思わせる物理的・地理的なイメージに加え、人種差別や人間関係などの精神的な要素も含み、作品をより立体的にしている。これほどまでにこの映画のメッセージを端的に伝えながら、不気味さや冷たい印象を与えられるタイトルを、他に思いつくことができない。
収容所への無関心加減には身の毛がよだつ
殺りくが行われているその瞬間、壁を挟んだ隣の家では優雅にコーヒーをいれている。特に、妻ヘートヴィヒの行動や発言からうかがえる収容所への無関心加減には身の毛がよだつ。ありえない。ずっと悲痛な声が聞こえているじゃないか。あの煙が目に入らないのか? どうして平気でいられるんだ。彼らの姿に絶望しながらも、私は一番恐ろしいことに気付いてしまう。私の中にもヘス一家と重なる部分があるということだ。今、自室という守られた空間でパソコンに向かっている私は、この瞬間に起きている紛争にどれだけ関心をもっているのか? 歴史的背景や偏見から不当な扱いや差別を受けている人々のことを、どれだけ真剣に考えられるのだろうか? もっと言えば、身近な友達や家族のことをないがしろにしていないか? そして、それらが私の関心領域に達したとして、早い段階でノイズに変わってしまうであろうことにまで、気付いてしまったのである。意識的であろうが、無意識であろうが、あらゆる音をシャットアウトできる人間はとてつもなく残酷で、私も紛れもなくその当人なのだ。
私たちの日常に潜んでいる
映画製作における2年の徹底したリサーチは、実在した人物たちをより生々しく描く。あくまでもファミリードラマとして進行する中で映しだされる人間の残酷さは、決して過去の話や大げさなものではない。そして、遠い国の話や人ごとでもない。家、学校、電車、SNS。それは今まさに私たちの日常に潜んでいるのだ。あのレンガの壁が、普段私たちが自分を囲って保っているもののメタファーだとすれば、その外側への関心、意識、配慮はどこまで及んでいるのか。きっと自問せずにはいられなくなるだろう。ここまでコラムを書いて、私はもうひとつ気付いてしまった。この例えようのない後味の正体は、脳にこびりついた誰かの叫び声だということに。