第73回ベルリン国際映画祭で、名誉金熊賞のトロフィーを手にするスティーブン・スピルバーグ監督=ロイター(授賞式の写真は全てロイター)

第73回ベルリン国際映画祭で、名誉金熊賞のトロフィーを手にするスティーブン・スピルバーグ監督=ロイター(授賞式の写真は全てロイター)

2023.2.24

スピルバーグ監督に名誉金熊賞「ドイツは影響受けた大監督のふるさと。我が家に帰った気分」:第73回ベルリン国際映画祭

映画監督人生50年が過ぎた今も、衰え知らずの創作意欲で次々と新作を世に送り出しているスティーブン・スピルバーグ監督。最新作「フェイブルマンズ」は間近に迫ったアカデミー賞授賞式の本命のひとつとして注目されています。そこで、本特集ではスピルバーグ監督のキャリアを振り返り、彼が手掛けた名作の中からピックアップした作品を「入門編」として紹介しつつ、「フェイブルマンズ」の魅力にも迫ります。

勝田友巳

勝田友巳

第73回ベルリン国際映画祭の折り返しにあたる21日は、さながらスティーブン・スピルバーグの日。長年の功績をたたえて名誉金熊賞が贈られ、この日記者会見や授賞式が行われた。「子どものころと映画への情熱は変わらない」と熱く語り「人生で最高の瞬間」と受賞を喜んだ。

 
勝田友巳撮影

記者会見は満員、立ち見

「映画業界に足を踏み入れて60年、アカデミー賞では19回候補となり、三つのオスカー像を持ち帰った、世界で最も知られた映画監督」。映画祭のカタログはスピルバーグをこう紹介し、映画祭期間中に最新作「フェイブルマンズ」をはじめ、代表作を計8本上映する。今回の映画祭で最大の大物とあって、各国から集まった記者の関心も集まった。
 
記者会見は同日午後、授賞式に先立って開かれた。会見場は約300席。作品や出席者の知名度次第で集まる人数がシビアに違う。無名のアジアの作品だと閑古鳥、ということもあるが、スピルバーグ人気はただ事でない。立ち見はおろか、入りきれない記者が会場外にあふれる盛況ぶりだ。質問には丁寧に冗舌に答え、時間が来たという司会者の合図に記者からブーイングが起きると、自ら時間延長する神対応。和やかかつ情熱的な言葉で、名誉賞にふさわしい会見となった。
 
拍手に迎えられたスピルバーグ、映画に取り組む姿勢を問われて、「子どものころと変わらない情熱が自分を捉え、同じ気持ちを持ち続けている」と強調した。質問に立った記者が「8歳の時、『E.T.』を見に行く両親の後を、パジャマ姿でこっそりついて行った」というエピソードを明かすと「似たような経験があるよ」。
 
「9歳の時、映画を見に行く両親が、暴力的だからと連れて行ってくれなかったことがあった。ジョン・フォード監督の『捜索者』(1956年)で、帰ってきた両親がずっと話し続けていたんだ。だから翌日の土曜日、25セント硬貨を2枚握りしめて、1人で見に行ったよ」

 

「コロナ禍で人生振り返った」 「フェイブルマンズ」

最新作「フェイブルマンズ」は、自身の半生を映画化。8ミリカメラで映画作りに夢中になったこと、母親の浮気で家族がバラバラになったことなど、思い出を再現している。それまでの作品にも「常に家族を描いてきた」というが、実人生を取り込んだのは初めて。コロナ禍がそのきっかけとなったという。
 
「コロナ禍で家にこもり、恐ろしくなったんだ。死や年齢について考え、自分はどこに行くのかと。まだ作っていなかった映画のことを考えて思い当たったのが、家族と芸術の葛藤の物語だった。6年前の今日、母を亡くし、3年前に父を亡くして、内省的な気分になっていたこともあって、自分を形作った時代のことを語れるようになったのだろう。恐れが勇気をくれたと思う」
 
「フェイブルマンズ」では、ミシェル・ウィリアムズが奔放で自由な母親を演じている。「母は大きな存在だった。ミシェルはそっくりに演じてくれた。とても前向きに楽しみを見つけて生きる人で、衝動的に物事を決めるんだ。『星を見に行く』と言って子どもたちを車に乗せて、アリゾナの砂漠の真ん中に飛び出していくような。亡くなる前は『面白い話がたくさんあるから、映画にしなさいよ』といつも言っていた」
 

「フェイブルマンズ」の一場面 © Storyteller Distribution Co., LLC. All Rights Reserved.

20年たって理解したジョン・フォードのアドバイス

終盤のハイライトは、ハリウッド興隆期の大監督、ジョン・フォードとの出会い。スピルバーグ少年はプロデューサーに紹介されて、オフィスを訪ねる。映画ではデビッド・リンチ監督が演じるフォードは、コワモテでスピルバーグ少年にどなりつけるようにアドバイスをし、最後は「Get the fuck out of my office!(出ていけ)」と追い出されてしまう。
 
「実際にはああは言わなかったから、そこは大きく違うけど、記憶している会話をなるべく忠実に再現したつもり。彼に言われたことは恐ろしかったし恥ずかしかったけれど、20年も後になって、とても大きな贈り物をくれたんだと理解した。彼の事務所に招いてくれて、僕にどれだけ映画が好きか、彼の映画が好きかを話させてくれたんだから。まだ16歳でアドバイスの意味は分からなかったし、荒々しいやり方だったけど感謝している」
 
長く撮影監督として組んでいるヤヌス・カミンスキーについて質問され、出会いのエピソードを明かした。「撮影監督を探しているときに、テレビでダイアン・キートンが監督した『ワイルドフラワー』を見ていた。温かさと冷たさが同じ画面にある映像が、すごく印象的で、撮影監督が誰か気になったんだ。俳優には寒色系のライトが当たっている一方で、外に暖かな太陽があった。自分がテレビのパイロット版を作ることになって彼を雇い、たまたま2人ともポーランドに縁があってね。その作品は白黒で撮ろうとしたので、彼に撮ったことはあるかと聞いたら『ポーランドの映画学校は白黒フィルムしか使えなかった』と言うんだ。その93年以来、彼とずっと一緒だよ」

トリュフォーの一言から「E.T.」が生まれた

デビュー作の「激突!」(71年)についても振り返った。「バックミラーに映る大きなトラックは怖かったし、フランスの『恐怖の報酬』(53年)も大好きだった。『激突!』はプレイボーイ誌の短編が原作で、秘書が映画にすべきだと渡してくれたんだ。読んでみたら、どうしてか分からないがこの題材は相性がいいと感じて、苦労してABCのテレビ映画にしたんだ」。この作品以降、仕事の依頼が相次ぎ、映画監督として自立した。「最良の選択だったね」
 
「未知との遭遇」に出演したフランスの映画監督、フランソワ・トリュフォーについても話が及んだ。「彼のような人はないな。子どもの心を持っている。『未知との遭遇』(77年)では4カ月一緒に仕事をしたし、『E.T.』(82年)を作ったのも彼のおかげでもあるんだ。トリュフォーはちょうど『トリュフォーの思春期』(76年)を撮ったばかりで、子どもたちととてもいい時間を過ごしていた。彼が僕に、『君は子どもの心を持っている』と言ったんだ、子どもと映画を作るべきだってね。なまりのある英語で、『キッド(子ども)』を『キード』と発音したよ」
 

キューブリックの家で夕食

スピルバーグが監督した「A.I.」(2001年)は、20世紀のもう1人の大監督、スタンリー・キューブリックと開発していた企画だった。スピルバーグ製作、キューブリック監督で映画化されるはずだったものの、キューブリックが99年に死去。一度は宙に浮いたが、スピルバーグが監督も兼ねることになった。2人の長い付き合いを振り返った。
 
「僕が『レイダース 失われたアーク』、彼が『シャイニング』の準備をしていたころ、79年11月だったと思うけど、彼の家に夕食に招いてくれて、それ以来友人となった。一緒に進めたのは『A.I.』だけだったけれど、(キューブリックの妻でプロデューサーの)クリスティアンヌとジョン・ヘレンと一緒に、彼が残したオリジナル脚本で、HBOのシリーズ『ナポレオン』に取り組んでいるところだよ」
 
今後の構想はありますか、と聞かれて「そう願いたいね」。今は白紙の状態という。「2本続けて、とても個人的な映画に深く関わったから。『ウエスト・サイド・ストーリー』は人生最高のミュージカルだと思っていたし、『フェイブルマンズ』は『ウェスト・サイド・ストーリー』の仕上げの段階で思いついて、公開前に撮り始めたから、次に何をしようかと考える暇がなかった。何をするか決められるというのはいい気分だけれど、怖くもある。仕事は好きだし必要だから、次に何をするか、最大の問題だね」

 
「フェイブルマンズ」の一場面 

ショットよりストーリー

いちばん好きな作品は、との質問には「ありきたりだけど、自分の映画は子どもみたいなもの」と前置きした上で、いくつかの作品を挙げた。「いちばん好きというのはないけど、肉体的にいちばん大変だったのは『ジョーズ』。もっとも感情的になったのは『シンドラーのリスト』だったけど、今は『フェイブルマンズ』だな」
 
かつてジョン・フォードに憧れた無名の若者は、世界中の映画監督のタマゴが目指す存在となった。そんな若手にアドバイスを。「ショットよりも、面白い話を理解しろということ。とにかく良い脚本がなければだめ。脚本にないものはセットにもない、といつも言っている。観客が引き込まれるのはショットじゃなくて物語なんだ」。自身も若手監督の作品に刺激を受けるという。「昔の監督よりも今の若い監督に学んでいる。ダニエルズ監督の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は驚くべき作品だった」


ショア財団の活動に誇り

第二次世界大戦中にナチスの大量虐殺からユダヤ人を救った逸話を映画化した「シンドラーのリスト」(93年)は、アカデミー賞作品賞などを受賞した代表作の一つ。この作品をきっかけに、ホロコーストの生還者の証言を記録するショア財団を設立した。
 
「ショア財団は自分にとって、最も大きな社会的貢献だと思う。『シンドラーのリスト』で映画を超えた責任を感じることになった。撮影にも生還者を招待したが、彼らは自分たちの物語を語ってほしいというだけでなく、何が起きたかを残したいと思っていた。そこから、ハンガリーやポーランド、戦前のドイツなどで起きたことの映像と証言を集め、記録する組織を作ろうと考えた。現在も活動していて、ホロコースト生還者4世などの関係者ばかりでなく、シリアやカンボジア、サラエボ、ウガンダなど虐殺のアーカイブだ。ドイツとベルリンは最初の支援者で、欧州の拠点となっている」。最後までにこやかに、そして情熱的に答え、笑顔を振りまいて会見場を後にした。
 

ボノがプレゼンター授賞式

授賞式はその夜。映画祭のメイン会場、ベルリーナ・パレストで「フェイブルマンズ」を上映し、U2のボノがプレゼンターとして登場した。
 
ボノは自身のスピルバーグ体験が「続・激突! カージャック」(74年)から始まったと振り返った。
 
「子どもを取り戻すために刑務所を脱走する母親の姿は、いかにもスピルバーグ的状況で、世界に衝撃を与えました。私は映画を見ている母親の顔を見て泣きました。母はいつも、私を探してくれていたんです。『スピルバーグ』は単なる名前ではなく形容詞です。『A.I.』は人工知能が魂を得て愛を知り、母親を生き返らせました。ハリウッドが機械なら、スピルバーグは魂です」
 
金熊のトロフィーを手にしたスピルバーグも、心温まるスピーチで応えた。「60年にわたって映画と関わってきましたが、『激突!』や『ジョーズ』は去年のことのようです。特急電車のような人生の中で変化と喪失が蓄積して、『フェイブルマンズ』を作りました。これまでの人生、犯した過ちや作ってきた映画を振り返る時なのでしょう」
 
ベルリンへの謝意も、映画を通して表現。「ドイツの映画には、大きな影響を受けました。ムルナウ、ラング、ファスビンダー、ベンダース。私の作品はドイツが家のようなもので、私も今、家に帰ってきた気分です」
 
最後はジョークを一言。「ここで告白しますが」とベルリンの象徴である熊をかたどったトロフィーを手に「実は熊が怖いんです、サメよりも」。「自分が来た道を振り返って、とても意味のある賞です」と結んで、万雷の拍手を浴びていた。

「フェイブルマンズ」は3月3日より全国公開
 

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ライター
勝田友巳

勝田友巳

かつた・ともみ ひとシネマ編集長、毎日新聞学芸部専門記者。1965年生まれ。90年毎日新聞入社。学芸部で映画を担当し、毎日新聞で「シネマの週末」「映画のミカタ」、週刊エコノミストで「アートな時間」などを執筆。

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