© TSUBURAYA PRODUCTIONS Netflix TM

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2024.6.25

「Ultraman: Rising」世界の大地に立つ――自由になったウルトラマンが特撮を超え、歴史を超える日

公開映画情報を中心に、映画評、トピックスやキャンペーン、試写会情報などを紹介します。

ひとしねま

公野勉

ウルトラマンの挫折

2024年6月14日、ついに「Ultraman: Rising」が配信を開始した。北米のスタッフによる、北米の制作体制で作られたフル3DCGのウルトラマン作品である。ウルトラマンの新作がネットフリックスで見られる時代になるとは隔世の感がある。それは「日本の原作映像がハリウッドでリメークされる」というような簡単な話ではない。これまでウルトラマンと名がつくものが他国で制作されるには、さまざまな障壁があった事を筆者はよく知っているからだ。


ウルトラマンは1966年、円谷プロダクションによって生み出された。東宝の資本を受け、特撮を体系化した巨人・円谷英二の率いる同社は、TBSの支援もあってテレビ映画に参入する。そのシリーズ第2弾に登場した主役、光の超人がウルトラマンである。彼は日本中の子どもたちを瞬く間にとりこにし、そして混沌(こんとん)とした時代に光を照射していった。

その時代、著作権や版権を基点としたマーチャンダイジングは、一般的に認知され、システム化されたビジネスモデルでは決してなかった。円谷粲(あきら=円谷英二の三男)の話では、地方で勝手に商品化されたりすることも多く、突然、地方の事業者が「すいません、勝手に商品を作ってもうけ過ぎたので報告に来ました」と、おわびの品を持って上京してきたほどだ、という。それほど〝キャラクターを勝手に使う〟ことには違法意識の無い時代であったし、ウルトラマンのキャラクターとしての商品力は絶大だった。

一方で現代のような会計基準が厳格ではない当時、プロジェクトごとの収支管理がなされることもなく、決算時に黒字かどうかだけを判断するような、緩い経営期間が長かったのが同社である。作品ごとの収支が計測されずとも、放映権を中心とした権利を海外で取引することができてロングテールの収入が重なり、それは同社がマーチャンダイジング収益に依存し、収益管理を甘くしていく体質の大きな要因となっていった。

そしてそんな時代の、あるひとつの取引によって、長い間、海外での自由な事業化にキャップがなされていたのがウルトラマンなのである。そしてそのキャップがようやく取り払われたのが数年前の事だ。経営権の移譲と共にその事業的不具合は完全に改善された。雌伏の時を越え、ウルトラマンはついに世界を相手に立ち上がったのである。
 

世界市場への挑戦と伝道師

アニメーションでは「ウルトラマンUSA」が87年に北米でオンエアされていたが、制作は日本国内のプロダクションだった。海外製という意味では90年の「ウルトラマングレート」、そして93年の「ウルトラマンパワード」がある。それぞれ豪州製、米国製で、特に「グレート」の撮影現場には円谷プロダクションの旧来スタッフも参陣して円谷特撮のメソッドが持ち込まれており、オープンセットの美しい特撮風景は現在でも評価が高い。しかし両作品とも、その販路はあくまで日本国内が主眼だった。海外制作かつ全世界同時配信というのは当作が初なのである。
 
昨年行われた、円谷プロダクション創立60周年記念〝TSUBURAYA CONVENTION 2023〟には、当作のシャノン・ティンドル監督が登壇した。ファシリテーターの塚越隆行会長の語るところによると、彼は「ラフカディオ・ハーンになりたい」と話したという。日本の文化を世界へ伝えた人物を理想とし、当企画を20年前から考えていたとも語るティンドル監督は、日本の特撮に恋い焦がれ、いつか自身の手によるウルトラマンを実現したかったのだ。
 
彼と共同監督ジョン・アオシマによる本作のテイストは、旧来のウルトラマンファンにとっては意外なものと受け取られるかもしれない。それは本作が単なる解釈替えをした作品ではないからだ。ネタバレは避けたいので物語には触れないが、いろいろな箇所がわれわれの知るウルトラマンとはかけ離れている。

戦争の呪縛からの解放

しかし、特撮から離れて3DCGアニメーションという描画表現を得た本作は、同時に戦後の呪縛からも解き放たれている。振り返ると60年代のウルトラのシリーズは〝戦争の呪縛〟にとらわれていた。バルタン星人による侵略を描いた第2話「侵略者を撃て」、米ソの宇宙開発競争を下敷きとしてジャミラの悲劇を描いた第23話「故郷は地球」、〝国連の一員〟を感じさせる万博的な風景や多数出演する欧米人の姿は、子ども心にも敗戦の劣等感を糊塗(こと)し、〝脱戦後〟を必死に叫ぶ、敗者の裏返しの姿のようにも思われたものだった。

しかし本作は北米のプロダクションを糾合して制作された。「スター・ウォーズ」のVFXを生み出したILMも参加し、世界中のすべての人々を喜ばせようと、日本人だけではない、全地球人に対して発信された作品なのだ。もはやかつての戦争の彼我などは一切関係無く、〝復興〟の怨念(おんねん)のような暗い情熱を感じることもまったく無い。すべての思想的なくびきから解放され、世界中の子どもたちへ向けた、新しいウルトラマン像がこの作品にはある。いや、実はこれこそがウルトラマンの本来の姿なのではないか。かつての初作クリエーターたちが目指したコンセプトとは、無意識の平和への祈りと、人々に夢を与えるエンターテインメントそのものだったのではないか。政治は混乱し、テロリズムが首都を襲い、キャンパスでは思想運動が暴走し、学生たちが世界平和の夢を叫び続けたあの時代――あれほどに混沌とした時代に生まれたウルトラマンが、真に目指していた姿は当作のように闇の無い、万人を喜ばせる平和な世界ではなかったか。
 

ウルトラマンに共通の普遍性

「Ultraman: Rising」がわれわれの知るウルトラマンと違っていたとしても、現在の世界中の人々が超人に求める思いは初作と同じはずであり、そして作品として応えるものも同じはずである。なぜならこの作品にはすべての生命に共通する「絆」という、普遍の思いが込められているからだ。それは異種であるヒトを救って死んだピグモンの悲しさや、虚空へ望郷の鳴き声を上げ続けるシーボーズの切なさと同義だ。怪獣たちはまるでヒトのように「絆」を求めていた。そして現代、銃弾と暴力に引き離された人々が涙する国際情勢を見ていると、「絆」を求める気持ちはやはり万国共通、生命共通だということが確信できる。

神は細部に宿る

映像について述べよう。専門外ということもあってCGは〝最先端水準〟だということ以上には語ることができないのだが、劇場用作品並みのクオリティーと、エンドロールのスタッフ数の多さから、当作にはかなりの制作費が投入されていることが察せられる。また、相当な奥行きのある3D空間設計にはかなりのレンダリングと、それに伴う膨大なマシンの数が必要であることが分かる。またスピードの速いカットでもオブジェクトのラインはブレずにクリアであり、フレームやリグ(キャラクター操作のシステムやインターフェースのこと)の基礎設計がしっかりとしていることも伝わる。

各国用のローカライズ版があるのかは知らないのだが、私の見た配信では東京の有名なロケーションが極めて精緻に再現され、またプロダクトプレースメントなのか、実際の商品名やデザインがそのまま描画されており、周到な事前取材とクリアランスが取得されていることが理解できる。極めて丁寧な仕事である。」

〝神は細部に宿る〟という円谷イデオロギーは北米にも世界にも通底している。それは取りも直さず日本の先人クリエーター群が撮り続け、各国でローカライズされ続けたウルトラマンたちの活躍のお陰なのだろう。

脚本も北米の定石である〝家族〟を基点としたドラマツルギーを下敷きに、万人が受け入れることのできる喜びや驚き、ペーソスを詰め込んで書き上げられている。さらに、現実の団体名や個人名を多数登場させることで作品には現実的なスケール感が生まれ、見る者の臨場感を高めているのも特徴である。いったいどれほどの渉外と調整が行われたのか!
 

父と子、絆という文化

本作を貫くのは父と子の葛藤する姿だ。現在のウルトラマンの世界ではウルトラの父と息子のタロウがおり、さらにそのタロウやセブンの息子のウルトラ戦士たちも登場している(3代!)。誕生からすでに50年余を過ぎ、ウルトラマンは大ファミリーとなったが、これまではそこに、現実のわれわれが抱えるようなリアルな家族の隔絶や、ヒーローとなる事を忌避する主人公の心根はそれほど描かれていなかったように思う。本作はそんな新世代の、そして核家族的な現代の実相を映し出しながらも、絆を再確認させようと展開する。

かつての子どもたちと、現在の子どもたちに贈られる、あたたかく、切なく、うれしい、ウルトラの新しい神話なのだ。

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ライター
ひとしねま

公野勉

山口県出身。1993年日本大大学院法学部研究科修了。円谷プロダクション入社後、東北新社、ギャガを経て日活の製作・配給担当取締役。タカラトミーでコンテンツ・スーパーバイザー、タツノコプロの担当役員を務め、現在は文京学院大学で後進育成を行いつつ、映画監督や舞台コンテンツの製作等を続けている。日本映画監督協会所属。