誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
2023.5.28
凡な男バイプレーヤーズ光石研が主演、同郷の北九州文化大使が見た「逃げきれた夢」
凡。
一般に「普通」「平凡」といった意味で使うことが多いが、「みんな」「全部」を意味する〝凡(すべ)て〟と表記することもできる不思議な漢字だ。映画「逃げきれた夢」を見てまっさきに浮かんだのが、この〝凡〟という漢字の包容力だった。そしてそれこそが、光石研さんの故郷で、筆者の故郷でもある北九州で撮影した北九州弁の映画がカンヌ国際映画祭(ACID部門正式出品)という大舞台で輝ける理由のひとつなのかもしれないなあと思ったりもした。
「いやあ、まいったよ。どうしようかね、これから」。記憶が薄れていく症状に見舞われた主人公が、介護施設で暮らす父親に話しかける。たぶん息子と同じ症状が進行しているであろう父親に反応はない。光石研さん演じる主人公・末永周平は、定年を前に、今まさに人生のターニングポイントを迎えている定時制高校の教頭である。
ただただ困惑する小さな男
記憶が……と聞くと、どうしても若年性アルツハイマー等の記憶障害を題材に、病に抗(あらが)う、あるいは正面から立ち向かう主人公像をイメージする人が多いと思う。だが、本作の主人公はそういった正統な前向きさにどこか背を向ける形で描かれている。
たとえば、フィクションには必ずと言っていいほど、走る、泣く、喚(わめ)く等の感情の昂(たか)ぶりや、劇的に何かを乗り越えるシーンがあり、それによって見る者にカタルシスを与えるというセオリーがあったりするものだが、本作にはそれがなく。たぶん誰もが知っている(あるいは抱えている)であろう小さな小さな心の歪(ゆが)みを粛々と積み重ねていくことによって、私たち(観客)それぞれの胸から押し出される〝一歩〟とはどんなものか?という問いかけをしているように思う。その象徴としてスクリーンの中を生きるのが、自分の状態を受け入れる準備が整わず、ただただ困惑する小さな男、末永周平なのではないか。
小ささこそが人間の生々しさ
不器用な末永は、女性の扱いもやたら下手だ。家族関係を修復しようと妻や娘に歩み寄ってはみるものの、まったく伝わらないどころか、逆に不信感を持たれたり。勤務する高校での生徒たちとの関係にしても、どことなく薄っぺらいし親身さに欠けていて……なんというか、とにかく小さいのである。しかしその小ささこそが人間の生々しさでもあり、「校長になりたかった」という、あと一歩の夢に届かなかった男のリアルのようにも思える。
小さいなあと嘲笑しつつも、人ごとと思えずいたたまれない気持ちになるのは、その狡(ずる)さや卑屈さの断片は多くの人が隠し持っているものだったりもするから。見ているこちらまで痛まずにはいられないほどに、世の中には〝末永周平〟がたくさん存在しているから。
立体的な人物造形
二ノ宮隆太郎監督は子どものころから光石研さんのファンだったという。脚本の執筆にあたって光石さん本人の人生を取材し、反映させたというだけあって、その立体的な人物造形は見事である。
一方、坂井真紀さん演じる妻の、生々しさが際立つ倦怠(けんたい)感や、ヒロイン役の吉本実憂さんのヒリヒリした演技も主人公の憂鬱に一層の拍車をかけているし、盟友である松重豊さんとの共演シーンは、いかにも北九州のおいちゃん(おじさん)たちの関係性!という、独特の空気感を創出しており、緊張と緩和のバランスも実に巧みだ。
小さいからこそ、世界規模の大きなお話
北九州を舞台に、北九州弁が飛び交う本作は、同市出身の筆者にとって眼福&耳福な作品であることに間違いはない。ただ、特筆しておきたいのは、末永周平はどこにでもいる小さな男であるということ。だからこそ、小さいからこそ、世界規模の大きなお話だということ。
凡は凡であり、凡てである。
北九州で撮った北九州弁の映画がカンヌの地で流れるのは快感だと、光石さんがインタビューで話されていたが、北九州を、北九州弁を、カンヌに連れて行ってくれた光石さんに、二ノ宮監督に、すべてのキャスト・スタッフのみなさまに、同市出身者としてお礼を言いたい。ありがとうございました!
「いやあ、まいったよ。どうしようかね、これから」……末永周平のボヤキが鑑賞中ずっと頭をぐるぐるしていた。小さな機微を積み重ねて、「これから」のために主人公が踏み出す一歩を、ぜひ劇場で体感してほしい。
6月9日(金)より新宿武蔵野館、シアター・イメージフォーラムほか全国ロードショー