【図5】森田版ではその場の全員が武器を手にして三十郎に挑みかかってくる。

【図5】森田版ではその場の全員が武器を手にして三十郎に挑みかかってくる。

2022.5.03

よくばり映画鑑賞術:黒澤明VS森田芳光 二つの「椿三十郎」を比較する

映画の魅力は細部に宿る。どうせ見るならより多くの発見を引き出し、よりお得に楽しみたい。「仕事と人生に効く 教養としての映画」(PHP研究所)の著者、映画研究者=批評家の伊藤弘了さんが、作品の隅々に目を凝らし、耳を澄ませて、その魅力を「よくばり」に読み解きます。

伊藤弘了

伊藤弘了

織田裕二はなぜ門番を斬り殺さなかったのか

 
黒澤明の「椿三十郎」(1962年)には森田芳光によるリメーク版(織田裕二主演、2007年)が存在している。せっかくなので二つのバージョンを比較してみようと思う。
 
森田芳光は「家族ゲーム」(83年)や「失楽園」(97年)、「模倣犯」(02年)などの話題作・ヒット作を多数手がけているベテラン監督である。「偉大な」黒澤映画をリメークするにあたって、森田はどのような戦略をとったのか。それを考えるのもまた本連載が掲げる「よくばり」のひとつの形である。


45年の時を隔てたリメーク

私は大学で映画論の授業を担当しているが、毎年、最初の回で「椿三十郎」の黒澤版と森田版を見比べてもらっている。これは「映画をよく見ること」を学ぶのにぴったりのレッスンだと考えている。じっさい、学生のリアクションは悪くない。二つの映画は基本的に同じ脚本を用いており(脚本は菊島隆三、小国英雄、黒澤明)、比較することで演出上の違いがくっきりと浮かび上がってくるのである。
 
二つの映画が使っている脚本は「基本的に同じ」ではあるのだが、まったく同じわけではないのがミソである。セリフにはところどころに細かな差異が見受けられ、その違いがそのまま森田版の戦略を体現している。その戦略を一言で表すなら「わかりやすさの追求」ということになるだろう。いくつか具体的なシーンを見ていこう。
 

「奸物」「枷」…現代の観客に配慮して変更

若侍たちが神社の社殿で密議をしている冒頭のシーンで、リーダー格の井坂(加山雄三/松山ケンイチ)は手渡した意見書が伯父の城代家老(伊藤雄之助/藤田まこと)によってビリビリに破られてしまったことを仲間たちに説明する。このとき黒澤版のセリフは「奸物(かんぶつ)粛清の意見書を渡すと」となっているが、森田版では単に「意見書を渡すと」に変更されている。
 
現代の一般的な観客が「カンブツ」という音を聞いて、それをただちに「奸物」に変換できるかどうかは、なるほどかなり疑わしい。「奸物」とは「悪知恵の働くよこしまな人物」を意味する言葉であり、この場面においては汚職に手を染めている悪い家臣を指している。なじみの薄い表現は、かえって観客の理解を妨げるノイズになりかねないと判断して省略したのではないか。
 
同様のセリフの修正はほかのシーンにも見られる。汚職の黒幕である大目付の菊井は、その罪を城代家老に着せるために偽りの告白書を書かせようとする。その際、黒澤版では菊井のセリフが「奥方と娘を枷(かせ)につかって」となっている。一方、森田版では同じ箇所のセリフが「奥方と娘を人質につかって」に言い換えられているのである。これも現代の観客に配慮した変更だろう。
 
すなわち、わかりやすさを追求する森田版の戦略とは「必ずしも時代劇を見慣れていない同時代の観客にも抵抗なく受け入れてもらえるリメーク映画にすること」にほかならない。何しろ黒澤版と森田版の公開のあいだには半世紀近い歳月の隔たりがある。黒澤の「椿三十郎」がいかにおもしろくても、またそのおもしろさに敬意を表して同じ脚本を使用するとしても、同時代の観客向けにセリフに多少の修正を施す必要性を認めたわけである。
 

「見てみな」から「聞いてみな」 映像がまるで違う

このような「わかりやすさ」を意識した演出は森田版の随所に見られる。たとえば、やはり冒頭の密議のシーンで、菊井の手下に社殿を取り囲まれていることを若侍たちに示すべく椿三十郎が言ったセリフが「見てみな」から「聞いてみな」に変えられている。これは単にセリフの変更にとどまらず、その画面をどのように見せるかにまで関わってくる。この場面のショットを詳しく見てみよう。


 【図1】「椿三十郎」(黒澤明監督、1962年) 社殿の壁に開いた穴から外の様子をうかがう三十郎。

「見てみな」のセリフを発するに際して、菊井の謀略に思い至った黒澤版の三十郎は、社殿の壁に開いた穴にすばやく走り寄り、そこから外の様子をうかがう【図1】。ここを寝床にするにあたってあらかじめのぞき穴の位置を把握していた三十郎の用心深さがさりげなく描きこまれていて秀逸なシーンである。三十郎に倣って若侍たちも社殿正面の木戸から外を見る。

それに対して森田版の三十郎は取り囲まれていることを音で判断する。三十郎の「聞いてみな」のセリフに続いて、若侍たちは社殿の壁に耳をつけて、大人数の足音、あるいはその気配を確認する。
 

【図2】外を見やる若侍たち。この角度からでは表情はよく見えない。


【図3】社殿の壁に耳を押し当てる若侍たち。移動カメラが一人ひとりの顔をアップで捉えていく。
 
このセリフの違いは、構図の違いにつながっている。黒澤版では社殿の外に目をやっている若侍たちを斜め後方から捉えており、彼らの顔はよく見えない【図2】。一方の森田版では、移動カメラが壁に耳をつけている若侍をほぼ正面から一人ずつ映す格好になっており、あからさまに動揺の色を浮かべている彼らひとりひとりの表情がよく見える【図3】。これもまた、観客にわかりやすさを提供するための工夫の一環であると思われる。
  

観客ファースト、わかりやすさに徹する

そもそも、森田版では社殿の密議に先行して、その周囲を何者かが取り囲む様子を提示している。このシーンは物語の導入部分にあたっており、彼らが置かれている状況を説明する役割を果たしている。三十郎による最初のアクションが行われるまでには結構な時間がかかるため、ともすれば観客を退屈させかねない。最初に周囲を囲む敵の姿を見せておくことで、その説明パートに緊張感を持たせようとしているのではないか。説明シーンのあとに何かしらの波乱が待ち受けていることは明らかであるため、観客はそのサスペンスフルな状況を楽しみ、期待を募らせることができる仕掛けになっているのである。
 
もちろん、わかりやすさが常によい結果をもたらすとは限らない。こうした見せ方をあざといと感じる観客もいることだろう。しかし、そのリスクを冒してでも、森田版は「観客ファースト」であることに徹している。それはかなりのところまで成功しているように思う。授業のリアクションペーパーを読むと、毎年少なくない数の学生が森田版のわかりやすさを好意的に捉えていることがわかる。
 
最後にもう一つだけシーンを見比べてみよう。映画の中盤には、三十郎が大立ち回りを演じるシーンがある。敵方に捉えられた4人の若侍を助け出すべく、三十郎は20人ほどの敵を斬り捨てる【図4】。このシーンにおいて黒澤版の三十郎は無抵抗で逃げ惑う門番をも斬り殺してしまう。菊井の懐刀である室戸半兵衛(仲代達矢/豊川悦司)を欺く必要があるため、目撃者を残すわけにはいかない。だから、この殺生には必然性がある。


【図4】目撃者を残すわけにはいかないので、武器を手に持っていない相手も殺さざるをえない。
 
とはいえ、やはり戦意を持たない人間まで殺してしまうことに現代の観客が抵抗を覚えると考えたのか(じっさい、授業ではそのようなコメントが散見される)、森田版ではその場の全員が三十郎に向かって斬りかかってきており、それを返り討ちにする格好になっている【図5=トップ画像にも】。


【図5】森田版ではその場の全員が武器を手にして三十郎に挑みかかってくる。
 
黒澤版では、若侍の浅慮ゆえに無抵抗の人間まで殺す羽目になってしまった三十郎のやるせなさと怒りが際立っている【図6】。「てめえたちのおかげでとんだ殺生したぜ」のセリフがしかるべき重みをともなっているのである。
 
森田版はそのニュアンスを犠牲にしてまであくまで現代的な倫理観にのっとろうとしているが、その代わりに、殺陣には黒澤版以上に時間をかけ、三十郎が苦戦している様子も映し出している。森田版の三十郎の険しい表情は、単に大勢の人間を殺したということだけではなく、戦闘による疲労によっても正当化されているように感じられる【図7】。
 
こうした設定の違いをどう評価するかは一概には言えない。古典をリメークするにあたって宿命的につきまとう問題であり、ぜひ、それぞれに考えていただきたい。
 
それから、これも自身の目で確かめてほしいので詳細は控えるが、ラストシーンの決闘の描き方は二つの映画で大きく異なっている。一瞬で決着がつく黒澤版と、スローモーションを駆使してじっくり描く森田版、さて、みなさんならどちらに軍配を上げるだろうか。


【図6】その場に転がっている死体を前にして険しい表情を浮かべる三十郎。


【図7】死闘を終えて険しい表情を浮かべている三十郎と、おびえた様子の若侍がわかりやすく対比されている。
 
 
図版クレジット
【図1、2、4、6】「椿三十郎」黒澤明監督、1962年(DVD、東宝、2015年)
【図3、5、7】「椿三十郎」森田芳光監督、2007年(DVD、エイベックス・ピクチャーズ、2008年)

ライター
伊藤弘了

伊藤弘了

いとう・ひろのり 映画研究者=批評家。熊本大大学院人文社会科学研究部准教授。1988年、愛知県豊橋市生まれ。慶応大法学部法律学科卒。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。大学在学中に見た小津安二郎の映画に衝撃を受け、小津映画を研究するために大学院に進学する。現在はライフワークとして小津の研究を続けるかたわら、広く映画をテーマにした講演や執筆をおこなっている。著書に「仕事と人生に効く教養としての映画」(PHP研究所)。


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