旦過再生支援プロジェクトロゴデザイン

旦過再生支援プロジェクトロゴデザイン

2022.9.23

「負けるか この野郎」映画俳優 高倉健の底力~ ご縁が紡いだ「旦過再生支援プロジェクト」

2021年生誕90周年を迎えた高倉健。
昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。
毎日新聞社では3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。
その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと想っています。

ひとしねま

小田貴月

「お話ししたいことあるけど、時間いただける?」
と、携帯に短いメッセージを頂いたのは、8月11日夕方のこと。
小倉織の染織家、築城則子(ついき・のりこ)さん(以下、則子さん)からでした。
 
則子「貴月(たか)さん、旦過(たんが)の火事(映像)見た?」
貴月「はい。昨日の夜、映像を見ながら、なんで4月の火災を再放送しているのかって思って見てたんです。まさか、2度目とは思わなくて」
則子「わたしも、えって思って。どうして? ようやく、4月のがれきとか廃材が処理されて、再開のめどがついてたのよ。今回(2度目の火災)は、(私が)知ってる店もかなり被害を受けてて、いろんな人の顔が思い浮かんできてね。いくらなんでも2度はキツい。声もかけられない……。話ができた人は、心が折れた、と言ってるし・・・・・・」
貴月「そうでしたか・・・・・・」
則子「・・・・・・。相談なんだけど、健さんと一緒に(支援の)何かできないかなあ?」
貴月「・・・・・・。少しお時間いただけますか? 考えてみますね」と、一旦、お電話を切りました。
 
北九州市小倉北区にある旦過市場は、市民はもちろん、プロの料理屋さんの仕入れ先ともなっている所。昭和30年代に建てられた長屋式の商店が、全長180メートルのアーケードを中心に並んでいて、横道や枝道を入っていくごとに、ワクワク、そしてドキドキした迷路感に包まれる。なじみの顔と笑い声、そんな日常が大規模火災の被害を受けて一変した。1度目は4月19日42店舗、そして2度目は8月10日夜出火、翌11日に鎮火。45店舗が焼失。

8月火災後の旦過市場

お役に立てることは何か。
このとき、私の頭の中には高倉のいつものせりふ「早いのがうれしいよ」が降りてきました。
 
私が初めて則子さんにお会いしたのは、2017年秋。
高倉の追悼特別展を開いていただいた北九州市の関係者の方々に、お礼を申し上げに伺った時でした。ご協力者のおひとり、北九州商工会議所会頭のご紹介で、則子さんの工房に伺ったのです。
「生前、高倉が好きだった車メーカーの冊子に小倉織のことが取り上げられていて。私は個人的に織物に興味があったので、その時から、もし北九州に伺う機会があれば、ぜひお訪ねしたいと思っておりました」と、ごあいさつしたところ、則子さんは間髪入れず、「健さん! 本当にすてきよねぇ!」と、満面の笑みで迎えていただいたのです。
里山にある染織工房は、懐かしさ漂う日本家屋でした。畳の上に複数の機織り機が置かれ、木製の糸巻き機も使い込んだ存在感にあふれていて、時折、澄んだ野鳥の鳴き声が響きわたるような所です。
「この(工房)周辺に自生しているいろんな種類の樹木を採取して、糸を染めるの。機織り機に糸をこうしてかけていって」と、則子さんから、糸染めから手織りまでの工程の説明を受けました。

遊生染織工房 染織家 築城則子さん

四季を通じて、丁寧に手間をかける。
高倉が「映画の撮影はね、大勢の人が大真面目に毎日コツコツ、織物を織るように丁寧に時間を紡いでいくものなんだよ」と話してくれたことがふと思い出されました。
則子さんが手作りされたという、イチジクのコンポートのおいしかったこと!
細身のお体から迸(ほとばし)るバイタリティに、圧倒されて工房を後にしました。
 
記念にいただいた展覧会の図録によれば、則子さんは1952(昭和27)年、北九州市生まれ、早稲田大学文学部を中退後、染織研究所で染織を学び、創作活動に入られ、昭和の初めころ、一度途絶えていた故郷・北九州の小倉織を1984(昭和59)年に、小倉縮を1994(平成6)年に復元、再生されたのだそうです。
文化庁長官賞をはじめ、数えきれないほどの受賞歴。
2022年9月に、小倉織は福岡県知事指定特産工芸品となりました。
 
小倉織再生という郷土愛に満ちた則子さんからのご相談。
断れるはずはありません。
8月、2度目の火災で、心が折れてしまっている旦過周辺の皆様を励ませる何か……。
私は、静かに高倉の来し方を振り返りました。


福岡県・遠賀川

2014(平成26)年、83歳で亡くなった高倉は、福岡県中間市生まれ。
少年時代、故郷、遠賀川(おんががわ)流域や洞海湾(どうかいわん)周辺には、石炭採掘の仕事を求めて、全国から大勢の人が集まりにぎわい、血気盛んな男たちが町を闊歩し、時には刃傷沙汰もあったとか。
「朝、学校へ向かう途中、道端に筵(むしろ)が掛けられててこんもりしたのがあってね。あっ、死んでるんだって」
高倉自身は、そんな光景を目の当たりにしながら、遠賀川周辺の川筋気質(かわすじかたぎ)を“負けん気”と捉えて、映画俳優としての58年の歳月を乗り越えた……。
 
社会人になろうとしてからの最初の試練は、「君は俳優に向いてない」という俳優養成所指導者の引導。なにせ時は、就職難。当時、好きな人と一緒になりたい一心で、スカウトされた映画界に飛び込む決心をして、養成所に通い始めるのですが、養成期間の終わりを待たずして「わたしは長いことここで教えていて、経験上わかる。あなたの目には、意味がある。悪いこと言わないから、この仕事は諦めたほうがいい」と、芸名すら決まっていない高倉に諭したのだとか。
養成所に通うだけでも給料がもらえるため、「そう言われたって、はい、そうですか。なんておとなしく辞められるわけないよ。むしろ、そんなこと言われたからには、何がなんでも一人前の俳優になってみせるって思ったんだ」と、生来の負けん気が、図らずも頭を擡(もた)げることに。
 
結婚後、借金して建てた自宅が38歳のとき火事で全焼。何もかも失い、その後離婚。
20年間所属していた東映からの独立のとき、もしかしたら、もう映画俳優は続けられないかもしれないという得も言われぬプレッシャーを感じたとか。
その後、本人の弁によれば “運よく”、高倉の代表作ともいえる「八甲田山」や「南極物語」という作品に出合え、もしやあのとき死んでいたかもしれないという過酷な撮影を乗り越えようともがきながら、心に刻んでいた言葉が ”負けるか この野郎“ 。
誰かに投げつけるのではなく、自分を鼓舞する言葉。
 
私は翌12日、「高倉が過酷な撮影のとき心に刻んでいた言葉があるんです。“負けるか この野郎”ってどうでしょう?」と、則子さんにお伝えしました。
「えっ!!! ぴったり、まさに!!! その大切なお言葉、今回の支援に使わせていただける? 書き文字がいいと思うんだけど、“負けるか この野郎” は、征(せい)ちゃんに描いてもらっていいかしら?」と。
 
征ちゃんとは、世界的に有名なイラストレーター・グラフィックデザイナーの黒田征太郎(くろだ・せいたろう)さん。御年83歳。時代を席巻し、活動拠点をニューヨーク、上海に移して、今は北九州市門司に居を構えていらっしゃいます。

門司港駅

 関門海峡

黒田征太郎アトリエ外観

アトリエにお邪魔すると、征太郎さんは、東映時代の高倉との交流や、主演映画「神戸国際ギャング」のポスターを手掛けられた思い出を語ってくださいました。
「ある店で一緒になるんです。僕は、(酒を)飲みますが、高倉健さんは、飲まないんです……。僕は、高倉健さんにはすごく優しくしてもらった。僕、高倉健さんの着ておられるものが好きだった。よく分かってくれたねって。意気投合するわけですね。
・・・・・・。
命もらって生まれてきた以上は、これでいくしかない。負けるかこの野郎。周り全部敵に回しての言葉ではないですよ。“負けるか” 自分にですよ。健さんもそう思っておられると思いながら描きました」。
征太郎さんは、「これが一番しっくりくるんです」と、愛用のカランダッシュのクレヨンを使い、時折、ポキッとクレヨンを折りながら、13パターンもの “負けるか この野郎” を、力いっぱい描きあげてくださいました。
 
その中から一つに絞り、高倉の横顔を合わせて、シンプルで力強いロゴデザインにしてくださったのは、北九州市出身のグラフィックデザイナー、野口剣太郎さん。

グラフィックデザイナー SHIROKURO野口剣太郎さん

小倉織が再生できたように、旦過の再生に思いを込めたこの活動のプロジェクト名は、「旦過再生支援プロジェクト」。
8月12日始動。世間はお盆休み。その間、幾度もデザインを練り直し、16日にはデータ完成。則子さん率いる、超高速 “早いのがうれしいよ” チームの結束力のたまものでした。
お盆明けすぐに協力会社を募り、製品化していったのは株式会社小倉縞縞(こくらしましま)。縫製、シルクスクリーンプリントに、走り回ってくださいました。
 
小倉織は、先染めした木綿糸を使い、経糸(たていと)が緯糸(よこいと)より密になることで独特のたて縞を表現するのが特徴。江戸初期は袴(はかま)や帯、羽織に、そして明治時代以降は、学生服などにも用いられていて丈夫さは保証済み。
木綿? 気になる触り心地は、ゴワゴワ感は? 
それが、想像を軽く裏切るとても滑らかな生地なのです。


シルクスクリーンプリント 株式会社ネクストマップ

そこに、黒田征太郎さんに描いていただいた高倉の “負けるか この野郎” が、1枚ずつプリントされ、支援グッズを製作し販売する。その利益のすべてを、被災された旦過地区の方々へ寄付し役立てていただくことになりました。
 
「旦過 負けるか!」と銘打ったアイテムは、六つ。
・ハンカチ(31×31センチ)1,500円(税込み)
・バッグS(28×28センチ)3,500円(税込み)
・バッグM(43×43センチ)6,000円(税込み)
・風呂敷(68×68センチ)4,000円(税込み)
・前掛け ポケット付き(68×68センチ)5,500円(税込み)
・Tシャツ(M/XL)3,000円(税込み)
 
この支援グッズは、小倉縞縞のオンラインストアで予約受け付け中
https://shima-shima.jp/pages/tanga-makeruka-project

旦過市場の方々へは、前掛けを100枚作り仕上がった順にプレゼントしています。
 
火事で日常を失った皆様へ、希望の光の一助になればとの祈りを込めて、旦過再生支援プロジェクトに思いを重ねております。

神戸国際ギャング

``無国籍時代``の神戸を舞台にギャングたちの抗争を描く。戦後すぐの神戸。無法者たちが横暴を極めていた時代、雑草のように誕生した男女混成のギャング団があった。ボスは気が荒いが情に弱い団(高倉健)、副首領は冷血漢の大滝(菅原文太)、そして男勝りのマキ(真木洋子)など、復員兵あがりの命知らずの人間たちで構成されている。しかし、次第に団と大滝の歯車がかみ合わないようになり、ついに接収ダイヤをめぐって二派は対立する。(追悼特別展「高倉健」図録より)

八甲田山

明治時代、八甲田山での死の行軍の全貌を描いたパニック大作。日露戦争を目前にした明治35年1月、青森第五連隊と弘前第三十一連隊は`白い地獄`と恐れられていた八甲田山に挑んだ。弘前は徳島大尉(高倉健)が率いる27人。青森は神田大尉(北大路欣也)率いる210人。徳島大尉は少数精鋭で案内人(秋吉久美子)に導かれ、自然と折り合いながらの行軍で全員帰還。しかし山田少佐(三國連太郎)が指揮を奪った神田隊は案内人も拒否して、自然を力でねじ伏せようと大寒波の中で遭難。生存者はわずかに12人だった。(追悼特別展「高倉健」図録より)

南極物語

南極に置き去りにされた2匹の樺太犬の生命力と、調査隊の犬係の悔恨を描く。1958年、南極探検隊の第一次越冬隊が第二次と交代するとき、15匹の樺太犬は置き去りにすることになった。犬係の潮田(高倉健)は帰国して以来、樺太犬の提供者に詫びて歩く。そんな彼に世間の目は冷たかった。第三次越冬隊が編成されることになり潮田も志願。南極の過酷な環境を、強靱な体で生き抜いたタロとジロに再会する。(追悼特別展「高倉健」図録より)

ライター
ひとしねま

小田貴月

おだ・たか 株式会社高倉プロモーション代表取締役

カメラマン
ひとしねま

小田貴月

おだ・たか 株式会社高倉プロモーション代表取締役

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