「ドライブ・マイ・カー」のみさき(三浦透子) ©「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

「ドライブ・マイ・カー」のみさき(三浦透子) ©「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

2022.4.05

よくばり映画鑑賞術:米アカデミー賞「ドライブ・マイ・カー」 「回転」と「音」を起点に深読みして分かったこと その2

映画の魅力は細部に宿る。どうせ見るならより多くの発見を引き出し、よりお得に楽しみたい。「仕事と人生に効く 教養としての映画」(PHP研究所)の著者、映画研究者=批評家の伊藤弘了さんが、作品の隅々に目を凝らし、耳を澄ませて、その魅力を「よくばり」に読み解きます。

伊藤弘了

伊藤弘了

村上春樹の原作小説にある言葉「回転音」から、「ドライブ・マイ・カー」の魅力を読み解く、後編です。
よくばり映画鑑賞術 米アカデミー賞「ドライブ・マイ・カー」 「回転」と「音」を起点に深読みして分かったこと その1
 

フリスビーが中断した言葉

工場内を見て回った2人は、その後、海辺の公園にやってきてたばこを吸う。その場面の会話のなかで家福は、いつも車のなかで流しているカセットテープの声の主が2年前に亡くなった自分の妻であることをみさきに告げる。「あのテープを聞くのが、怖くなった?」と問いかける家福に対して、みさきが「いえ、全然。むしろ何だか……」と言ったところで何かが転がってくるような音が聞こえてくる。フリスビーが飛んできたのである。みさきは言葉を切って、転がってきたフリスビーを持ち主に投げ返す【図7】。
 
フリスビーは、言うまでもなく回転する物体である。飛翔(ひしょう)してきた回転体によって会話は遮られ、その続きは言われないままに終わってしまう。ちなみに、フリスビーを投げた女性が犬を連れているのもささやかな伏線として機能している。「海の向こう」という先ほど触れた言葉と合わせて最後に確認する。


【図7】飛んできたフリスビーを投げ返すみさき。フリスビーの持ち主は犬を連れている。

古いものに囲まれながら、新しさを見いだす

カセットテープやレコードは「古い」メディアである。家福が乗っているサーブ900もすでに生産を
終了している古い車だ(15年間乗っているという設定になっている)。これらを日常的に使っている人は圧倒的に少数派だろう。
 
くわえて、カセットテープに吹き込まれているのは亡くなった妻の声であり、亡霊の声、幽霊の声と言い換えてもいい。劇中で演じられるチェーホフの「ワーニャ伯父さん」も古典的な演劇である。「ドライブ・マイ・カー」は、これら一連の古いものが持つ二面性を利用している。
 
劇中に登場する古いメディアは、家福が過去に囚(とら)われていることを象徴する。家福夫妻には娘がいたが、4歳のとき(映画の後半時点から見て19年前)に肺炎で亡くなっている。カセットテープやレコード、サーブ900はそのときに止まってしまった夫妻の時間をあらわすガジェットでもあるのだ(フィルムが主流だった時代の映画のアナロジーとして読むこともできるが、ここでは深入りしない)。そうしてそのカセットテープからは亡くなった妻の声が再生され、サーブ900の車内を満たす。言ってみれば、家福は過去の音に囲まれて生きている状態なのである。
 
一方で、人間は古いもののなかに新しさを見いだすことができる。亡き妻の朗読によって「ワーニャ伯父さん」のセリフを身体に染み込ませている家福は、新しいスタイルの舞台を作り出そうとする。日本語、韓国語、北京語、タガログ語など複数の言語が鳴り響く多言語劇として演出するのである(妻の死後、彼は一度その試みに失敗している)。
 
このとき、ソーニャ役のイ・ユナ(パク・ユリム)が韓国手話を使って演じている点は大きな意味を持つ。失声状態にある彼女は、さまざまな種類の音があふれる本作にあって、音ではなく、手話を中心としたボディーランゲージによって表現やコミュニケーションをおこなう。そのことが「ワーニャ伯父さん」の舞台を活性化し、家福の再生に活力を与える。彼女が見せる手話のなかで、特に筆者の印象に残っているのは手を回転させるように動かすものである【図8】。


【図8】ユナが用いる韓国手話のなかには、しばしば手を回転させる動きが出てくる。

「海の向こう」へ渡るみさき

過去を乗り越えるというのは、忘れることと同義ではない。家福の場合、それはこれまで正面から向き合うことを避けてきた妻との関係を見つめ直し、その過去を抱えて生きていくことにほかならない。それはみさきにおいても同様である。
 
地滑りに巻き込まれた母親を見殺しにした過去を持つ彼女は、映画の終盤で家福とともに生まれ故郷の北海道上十二滝村を訪れる。回転するサーブ900のタイヤは、広島から北海道を目指して長い線を描く。事故現場であるみさきの生家跡に立った2人は、それぞれが抱えている傷の深さを確認しあい、新たな目的地を見いだすべく前を向き始めるのである。
 
最後のシーンは韓国で展開される。この唐突な場面転換に違和感を覚えている観客は少なくないだろう。だが、筆者は映画にとって必要なシーンであったと考える。広島の舞台公演からどれほどの時間がたったかは定かではないが(人々がマスクをしていることから現実の現在に近い状況であることがうかがえる)、みさきはその後、韓国に渡って暮らしているようである。
 
意図的なものではないかもしれないが、結果として原作小説でみさきに与えられていた渡利(わたり)という苗字から連想されるイメージがうまく膨らまされている。ゴミ処理場を見学した際にみさきが発していた「海の向こう」という言葉が現実のものとなったのである。そもそも、北海道を目指す途中で2人は車ごとフェリーに乗っており、一度、海を越えている。いや、それ以前に瀬戸内海に浮かぶ島のレジデンスから稽古場まで、みさきは毎日のように家福を送り迎えしていたのである。韓国行きはそれらを大掛かりに反復したものである。
 
韓国のスーパーマーケットで買い物を済ませたみさきは、家福が乗っていたのと同じ赤色のサーブ900に乗り込む。後部座席には犬が乗っているのが見え、彼女が車を走らせ始めてマスクを外すと前に顔を突き出してくる【図9】。犬と戯れるみさきの姿は、映画の中盤にユナとコン・ユンス(ジン・デヨン)の家でディナーをしていた際に見られたものであった【図10】。また、先ほど見たように、ゴミ処理場のシーンの最後にはフリスビーとともに犬が登場していた。モチーフの反復によって、みさきが他者との交流を通して変化していったさまが印づけられているのである。


【図9】みさきは、運転席に顔をのぞかせた犬の下顎をなでて、笑顔を見せる。


【図10】家福から運転の腕前を絶賛され、照れ隠しに犬と戯れるみさき。

サーブを介した家福とみさきの家族的つながり

この最後のシーンでみさきが運転しているサーブ900は、家福から譲り受けたものだろう。このサーブは家福がとりわけ大事にしていたものだが、だからこそ、それを譲ったことは家福に大きな心境の変化があったことを示唆している。家福にとって思い出が詰まった古いサーブ900は、みさきに贈与されることで新しい意味を持ち始める。みさきは、家福の亡くなった娘と同い年であり、劇中では2人の擬似的な父子関係が強調されていた。家族を喪った家福が、新たな家族(的つながり)を得たようにも読める(そうすると「家福」という名前にも新たな意味が生じる)。
 
最初にみさきがドライバーとして登場した際には、家福は彼女に運転を頼むことに難色を示していた。さらに、その後のシーンで、稽古の終わりが遅くなるときは車内で待っていてほしいと言う家福に対して、みさきは「大事にされている車とわかるので落ち着きません」と答えている。だが、スーパーマーケットからの帰り道では、みさきはほほみを浮かべており、くつろいで運転していることがわかる【図11】。彼女はもはや雇われドライバーではなく、自分の車を自分で運転しているのである。自分の車を運転することは、言うまでもなく、自分の人生を生きることの比喩である。

運転席のみさきを正面から映したショットは、映画の最後のショットへと切り返される。走行する車の運転手の主観ショットによって、果ての見えない海岸沿いの長い「直線」の道路が提示される【図12】。サーブが奏でるエンジンの心地よい回転音に劇伴が重ねられ(もはやカセットテープは必要ない)、やがて真っ黒の画面に映画のタイトルが大写しにされる。ここで提示される「DRIVE MY CAR」のタイトルは、したがって、文字通りの意味をあらわしているのである。


【図11】目の前にまっすぐ伸びる直線の道路を見つめるみさきの顔には、笑みが浮かんでいる。


【図12】映画の最後には、右手に水面が見える直線の道路のショットが提示されている。サーブを運転しているみさきの主観ショットと捉えるのが自然だが、この画面上に彼女の姿は見えないので、ここに観客を巻き込む余地が生まれている。
 
【図1〜12】「ドライブ・マイ・カー」濱口竜介監督、2021年(DVD、TCエンタテインメント、2022年)
 
注1=村上春樹「女のいない男たち」、文藝春秋、2014年、62ページ。
注2=デイヴィッド・ボードウェル、クリスティン・トンプソン『フィルム・アート 映画芸術入門』藤木秀朗監訳、名古屋大学出版会、2007年、283ページ。
             

ドライブ・マイ・カー

妻を亡くした演出家の家福(西島秀俊)は、広島の演劇祭で「ワーニャ伯父さん」を多言語劇として演出することになった。送迎運転手となったみさき(三浦透子)、家福の妻の浮気相手らしい俳優の高槻(岡田将生)との対話の中で、家福は妻との関係を見つめ直す。村上春樹の小説を脚色し映画化。

ライター
伊藤弘了

伊藤弘了

いとう・ひろのり 1988年、愛知県豊橋市生まれ。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。関西大、同志社大、甲南大非常勤講師。東映太秦映画村・映画図書室スタッフ。著書に「仕事と人生に効く教養としての映画」(PHP研究所)。

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