「ドライブ・マイ・カー」の音(霧島れいか) ©「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

「ドライブ・マイ・カー」の音(霧島れいか) ©「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

2022.4.05

よくばり映画鑑賞術 米アカデミー賞「ドライブ・マイ・カー」 「回転」と「音」を起点に深読みして分かったこと その1

映画の魅力は細部に宿る。どうせ見るならより多くの発見を引き出し、よりお得に楽しみたい。「仕事と人生に効く 教養としての映画」(PHP研究所)の著者、映画研究者=批評家の伊藤弘了さんが、作品の隅々に目を凝らし、耳を澄ませて、その魅力を「よくばり」に読み解きます。

伊藤弘了

伊藤弘了

村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」の終盤に「回転音」という言葉が出てくる。「耳に届くエンジンの回転音が僅(わず)かに変化するだけだ」という一文である=注1。今回はこの箇所を起点にして映画「ドライブ・マイ・カー」(濱口竜介監督、2021年)を読み解いていこう。


家福の妻の名前はなぜ「音」なのか

映画では主人公・家福(西島秀俊)の妻(霧島れいか)の名前は「音」に設定されている。「家福音」。劇中で「宗教的になりすぎる」と言われる名前だが、実は小説のなかでは妻の名は明かされていない。映画化にあたっては「ドライブ・マイ・カー」が収録されている短編集「女のいない男たち」から「シェエラザード」と「木野」の要素も取り入れられており、性行為の際に物語を語る女性の造形は「シェエラザード」に基づいている。しかし、この短編においても女性の本名は伏せられている(主人公は彼女のことを「シェエラザード」と呼ぶ)。
 
映画で妻の名前に「音」が採用されているのは、小説に出てくる「回転音」という言葉に由来するのではないか。これが筆者の仮説である。もちろん、監督や脚本家にこのような突飛な仮説をぶつけてみたところで、否定されるのがオチだろう。
 
だが、作り手の意図を正しく言い当てることだけが映画の楽しみ方ではない。映画には、それを見た観客が自由に想像を広げる余地がある。本連載ではこのような「深読み」をよくばりな映画鑑賞の一形態として位置づけたい。ただし、その深読みを人に納得してもらうためには、それなりの根拠を示す必要がある。それを試みてみよう。
 

サーブ900のタイヤとカセットテープ

まずは「音」に「回転」という言葉がついていることに着目したい。そう思って映画を見ると、随所に「回転」のモチーフがちりばめられていることがわかる。もっとも印象的なのは、主人公の家福が運転するサーブ900のタイヤの回転と、カセットテープの回転を、オーバーラップでつないでいる箇所だろう【図1〜3】。これはアバンタイトルの直前(映画が始まって40分ほどが経過したところ)にあらわれる。


【図1】


【図2】


【図3】

【図1〜3】走行するサーブ900を横から捉えたショットが提示され、それが再生中のカセットテープのショットにオーバーラップでつながれている。その際、画面上でタイヤとテープの回転の位置が重なるようになっている。

出会わなければ生まれないものがある

視覚的な類似に基づくこの種の編集は、映画においてしばしば見られ、映画研究の分野では「グラフィック編集」と呼ばれることもある=注2。二つの似ているものを連続的に提示することで、観客はおのずとその類似を意識する。特に説明を加えなくとも図像的な連続性を認識してもらえる点は、視覚優位の媒体である映画の強みと言えるだろう。タイヤとカセットテープの回転を重ねる編集は、その強みを生かした洗練された見せ方である。ただし、「ドライブ・マイ・カー」の場合は、単にしゃれた演出としてそれを利用しているだけではない。回転のイメージを物語の駆動力として巧みに活用しているのである。
 
先ほど引用した原作小説のなかで、回転音という言葉はエンジンのそれとして出てきていた。その車内のデッキにセットされたカセットテープは、リールに巻きつけられた磁気テープを回転させながらその表面に記録された信号を音に変換して出力する。つまり、走行する自動車の車内は、エンジン音、走行音、テープの再生音といった回転(が生み出すさまざまな)音に満たされた空間なのである。

回転と音が結びついたもう一つの小道具として、レコードがある。映画の冒頭には、家福夫妻の自宅内に置いてあるレコードプレーヤーを捉えたショットが見られる【図4】。このプレーヤーは、音が浮気相手と自宅で行為に及んでいるシーンに再度登場する。その際、再生中のプレーヤーのターンテーブル上ではレコードが回転運動をしている【図5】。別のシーンでは、再生中のプレーヤーを音が止めて家福に話しかけている【図6】。音自身の音(言葉)を伝えるために、回転体が発生させている音を停止させているのだ。

 
【図4】映画の冒頭に、意味ありげに挿入されるレコードプレーヤーのショット。


【図5】浮気相手と行為に及んでいる妻を家福が目撃するシーンには、再生中のレコードをクロースアップで捉えたショットが挿入されている。


【図6】家福に話しかける前に、音は再生中のレコードを止める。プレイヤーの針を上げる音の手元がクロースアップで提示されている。

「どこでもいいから走らせて」人生の目的を失った家福

自動車とはエンジンの回転をタイヤの回転に転換することによって移動を可能にする乗り物である。自動車は接地面との摩擦によって推進力を得ており、摩擦が生じなければスリップして前にも後ろにも進むことができない。原理的にはレコードが音を出す仕組みも原理的にはこれに似ている。カセットテープの場合はテープに記録された磁気信号が読み取り面との接触を介して電気信号に変換され、音として出力される。つまり、いずれの機器も二つのもの(タイヤと地面、レコード盤と針、磁気テープと読み取り面)が出会う必要がある。

これは人間関係の比喩として読める。他者と出会い、関係を作ろうと思えばさまざまな軋轢(あつれき)や葛藤が生じる。家福はそうした人間関係が必然的にもたらすネガティブな側面、とりわけ妻が抱えている問題に向き合うことができなかった人物である。空転し続ける家福は、結果として妻を失うことになってしまう。

劇中に頻出する車は、より抽象的な次元で別様に解釈することもできる。自動車は基本的にどこかに移動するために使うものだが、行き先を決めるのはあくまで人間である。この点で印象的なシーンが映画の中盤にある。広島国際演劇祭の滞在制作をしている家福は、ある日の稽古(けいこ)後、ドライバーの渡利みさき(三浦透子)に「どこでもいいから、走らせてくれないか」と伝える。

このセリフは、人生の目的地を見失っている家福の状況と重なっているように聞こえる。みさきは家福を市内のゴミ処理場へと連れて行く。その建物の2階には吹き抜けの通路がある。みさきの説明によれば、平和公園の方向へと続くその吹き抜けには、慰霊碑と原爆ドームを結ぶ「平和の軸線」を塞がず、海の向こうまで伸びていくようにという建築家の思いが託されている。劇中に何度もあらわれる回転のイメージに対して、ここでは直線が強調されている。また、みさきが発する「海の向こう」という言葉もキーになっているが、それについては後半で検討することにしよう。

米アカデミー賞「ドライブ・マイ・カー」 「回転」と「音」を起点に深読みして分かったこと その2

ドライブ・マイ・カー

妻を亡くした演出家の家福(西島秀俊)は、広島の演劇祭で「ワーニャ伯父さん」を多言語劇として演出することになった。送迎運転手となったみさき(三浦透子)、家福の妻の浮気相手らしい俳優の高槻(岡田将生)との対話の中で、家福は妻との関係を見つめ直す。村上春樹の小説を脚色し映画化。

ライター
伊藤弘了

伊藤弘了

いとう・ひろのり 1988年、愛知県豊橋市生まれ。京都大大学院人間・環境学研究科博士後期課程研究指導認定退学。関西大、同志社大、甲南大非常勤講師。東映太秦映画村・映画図書室スタッフ。著書に「仕事と人生に効く教養としての映画」(PHP研究所)。

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