2021年に生誕90周年を迎えた高倉健は、昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。毎日新聞社は、3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと思っています。
2022.12.31
「映画館のあった風景」第8回 石垣編 カンムリワシ、具志堅用高
底原(そこばる)川 橋の欄干のカンムリワシ
“カンムリワシ”は、石垣島出身の元プロボクサーで、現在タレントとして活動されている具志堅用高(ぐしけん・ようこう)さん(67)の愛称としても広く知られています。
76年10月、WBAライトフライ級王者ファン・ホセ・グスマンにKO勝ちして、沖縄県出身者として初めて世界王者となりました。
具志堅用高記念館
「僕のカラオケの十八番は、“網走番外地”です(笑い)」
中学3年生までを過ごした石垣島での映画館の思い出を話していただきました。
具志堅用高さん
「(高倉)健さんが、2000年の春に船舶免許の講習に石垣島に来た帰りだったと思うんですけど、飛行機のなかで、健さんに『具志堅さん!』って声かけていただいたんですよ。
僕のすぐ後ろの席だったのね。
その時、あんまりにもびっくりしちゃったもんで、よくしゃべられなかった(笑い)。
面と向かって話したのは、それが最初。
現役時代の試合もだけど、引退したあとも、なんかいろんな番組見てくださってたみたいね。テレビ番組が放送されたあと、すぐに携帯に電話をいただいて『良かったよ~』って」。
高倉は、福岡県の東筑高校時代、ボクシング部創設に関わるほどボクシングに関心が高く、俳優になってからは、アメリカ、ロサンゼルスやラスベガスまで観戦しに行っていました。
木戸銭(きどせん)は25セント!
「沖縄返還は、僕が高校のとき1972年ね。今年は、返還からちょうど50年ですよ。
石垣島で行ってた映画館は、丸映館と沖映館っていったかな。
子どものころ、テレビが無くて。
9歳のとき、東京オリンピックの年に白黒テレビが入ってきて、映るのはNHKだけ。
小学生のときは映画館には行けないから、中学生になったとき『網走番外地』見に行って。
夏休みと、正月。
勝新太郎さん、菅原文太さんとか、加山雄三さんの若大将シリーズですね。
島の人は考えることはみんな一緒で、映画館行ったら近所の人ばっかり、みーんな来てるの(笑い)。いっつも、満員だったよ。すごい、すごい。
カツオ漁の一本釣りの漁師だった海人(うみんちゅ)のおやじも、年に1回は行ってました。
みんなヤクザ映画好きでね!」
「小遣いはないから、自分でアルバイト。
夏はパインの収獲。パインは、6月から収獲。
お腹すいたら、これ食べてたな。おやつっていうか。サトウキビかじって(笑い)。
8月。もう、クソ暑いなか。1日やって映画1回分だから25セントくらいか。日当。
ソーキそば、八重山そばとかが、5セントから10セント」
ソーキそば
沖縄そばに、黒糖、泡盛、しょうゆで煮込まれたソーキ(=豚のアバラ骨部分の煮込み)が、トッピングされている。
八重山そばは、沖縄そばに比べるとストレートな麺が特徴。
サトウキビ畑
“ウージ”と呼ばれるサトウキビが、石垣島で本格栽培されたのは1887年。
収獲は12月末から4月末ころ。
この島で栽培が盛んなのは、台風の雨に含まれる海水の塩分にも耐性があり、十分な日当たりと、ダム湖による水源確保ができているからです。
用高はウーマク(やんちゃ坊主)!
「そういえば映画館で、甲子園の試合を見せてましたね。白黒。
沖縄興南(こうなん)高校が初めてベスト4に入ったときでした(68年夏)。
私は中学まで野球部で、ボクシングは高校に入ってから。石垣島ではボクシングの試合は見たことなかったです。
運動会は目立った。駆けっこのとき、足は速かった。
目立ちたがりで、実家の近所のおばちゃんたちに、用高(ようこう)は“ウーマク”って!
“ウーマク”=やんちゃ坊主ってことですけど、よく怒られてました。
高校受験のとき、答案用紙に名前書き忘れて、(石垣)島の高校に受からなかったので、(沖縄)本島の興南高校に行きました。
映画館で見たあの高校。
野球部は身長(制限)で入部できなかったから、ボクシング部に入ったんですよ」
具志堅さんは、高校3年生のとき、インターハイ・モスキート級で優勝し、拓殖大学商学部の体育推薦入試に合格し上京しますが、協栄ジムの勧誘に応じて、プロボクサーの道を突き進みました。
試合前は映画館に
「飯田橋のとんかつ屋 “ひろかわ” でアルバイトしてるときは、4回戦ボーイで、まだチャンピオンになる前だから、うまいもの食べられない。我慢ですよ。
油の匂いで、とんかつ屋のうまい米を食べてましたね(笑い)。
東京に出て来て、寂しいとき悲しいときは映画館にいたよ。
神楽坂に映画館があって、『(幸福の)黄色いハンカチ』も見たし、倍賞(千恵子)さんと健さんの。
飯田橋のギンレイホールとか、佳作座とか。外堀通りにあったのを覚えてるんです。
歌舞伎町も行ったな」
名画座ギンレイホール
武蔵野館
佳作座
新宿武蔵野館
「特に、試合前は一人で映画館でじっと座ってるんです。
怖いから。
家にじっとしてるか、映画館にいるか、公園のベンチでぼーっとしているか。
ただ、公園のベンチに座っている人は、警察官に職務質問される。
私は、試合前は、一人で映画館にいたから大丈夫でした。はい(笑い)」
81年3月8日、沖縄県具志川市(現うるま市)で、14度目の防衛戦で敗退、これを最後に引退した具志堅さんは、すでに婚約していた香澄さんと21日に結婚。
「タイトル失って、すぐ披露宴を挙げたんだ。もう、戦う気力がなくて、何しても面白くないんだもの。だから、その時も映画館に居たよ。
なんかわからないけど、映画館が落ち着くんですよ。
映画館で手をつなぐのが一番落ち着くよね!」と、笑顔の具志堅さん。
原点は石垣島
「私ね、今でも財布に25セントとか、入れてるんです。
子どものころ10ドルは大金。お年玉が2ドルだったかな。
原点は、石垣島。その環境で育ったから、ボクシングができた。
最初から本島で育ったら、ボクシングはできてなかったと思いますね。
無我夢中で、耐える力をもっとったから、いろんなものを学んで世界を獲ったんじゃない。
これからの人生、楽しくいきますよ!」
具志堅さんは沖縄返還後ほどなく上京し、これまで知らなかった沖縄の魅力を再発見する情報番組「ぐしけんさん」に出演中です(沖縄テレビ放送 日曜日午前8時半スタート)。
第6回 石垣編 心を休めに八重山へ
https://hitocinema.mainichi.jp/article/8ulnhhh6bp6
第7回 石垣編 石垣島の発展と台湾交流
https://hitocinema.mainichi.jp/article/llk1idto6vs
第9回 石垣編 エピローグ
https://hitocinema.mainichi.jp/article/ilmyiadr-2
*イラスト 梅田正則プロフィル
1948年新潟生まれ。テレビ・映画美術監督。
テレビドラマ「北の国から」「踊る大捜査線」「ロングバケーション」「これから~海辺の旅人たち~」(主演:高倉健)、「若者たち2014」ほか数多くの作品の美術監督をつとめる。2022年、実写世界からアニメに挑戦。69~74歳まで6年かけて「ケンタのしあわせ」(3分55秒)を、梅田正則監督作品としてついに完成させた。