八重山オリオン イラスト:梅田正則

八重山オリオン イラスト:梅田正則

2022.12.30

「映画館のあった風景」第6回 石垣編 心を休めに八重山へ

2021年生誕90周年を迎えた高倉健。
昭和・平成にわたり205本の映画に出演しました。
毎日新聞社では3回忌の2016年から約2年全国10か所で追悼特別展「高倉健」を開催しました。
その縁からひとシネマでは高倉健を次世代に語り継ぐ企画を随時掲載します。
Ken Takakura for the future generations.
神格化された高倉健より、健さんと慕われたあの姿を次世代に伝えられればと想っています。

ひとしねま

小田貴月

高倉の趣味の一つは、スキューバダイビング。
海外で楽しむほか、晩年は足繫く八重山諸島を訪ねていました。
きっかけは、1984年12月に53歳で亡くなられた森谷司郎監督の墓参のため、西表島を訪ねたこと(現在は西表島には、森谷監督のお墓はありません)。
森谷監督と高倉は「八甲田山」「動乱」「海峡」という三つの作品でご一緒しており、次の作品が待たれていた監督のお一人でした。

高倉と平田哲三さん (写真提供:奥平崇史さん)

石垣島の波止場から平田丸に乗ってさらに西表島へ。平田丸の船長、平田哲三(ひらた・てつぞう)さん(82)は、司馬遼太郎【ワイド版】街道をゆく「沖縄・先島への道」にも登場しておられます。
 
この平田観光株式会社副社長、奥平崇史(おくだいら・たかし)(50)さんは、沖縄県文化財保護指導委員で、島の歴史に詳しい方でした。
「私は石垣島生まれですが、父が転勤族だったので、小6に石垣島に戻って中2までここで過ごしました。大学を出て、しばらく東京で働いて、2000年にまた石垣島に戻ったんです。
最初に見た映画は、幼稚園の時、沖縄本島で父と一緒に見た『スターウォーズ』(77年)。忘れてませんね!
この島には、60年代、全盛期のとき映画館がいっぱいあったんです。
歴史も古くて、沖縄電力の前身だった八重山電力の社長だった山城興常(やましろ・こうじょう)さんが1919年に千歳座という芝居小屋を造られました」
 
「新八重山歴史」(牧野清著)によれば、八重山電気株式会社は、26(大正15)年に設立され、翌年5月より業務開始、45(昭和20)年、太平洋戦争の空爆により事業が中止されるまで、八重山の電気事業に大きく貢献した会社です。
戦時中、石垣に駐屯した日本軍が、八重山電気会社の配電施設を解体し戦用資材として使用したため、終戦直後の電気事業は困難な状況下におかれましたが、46年、戦後米国政府の援助を受けて市内全域への送電が開始され、52年の群島政府の廃止に伴って、事業が石垣市に継承されたとのことでした。

1971年 山城興常さんは最前列左から5人目 (写真提供:奥平崇史さん)

「千歳座がB29の爆撃を受けて焼けてしまって諦めると思いきや、娯楽の火を消しちゃいかんということで、芝居と映画も楽しめる千歳館(47年7月14日)に建て直されました。
沖縄県内でも最新設備だと評価されて、本島から芝居一座が定期的に公演に来てたんです。18番街というところの料亭十八番が定宿。すぐ裏で千歳館とつながっていて、そこを行ったり来たりした」
 
千歳館は57年(12月3日)に八重山オリオンに改称され、69年ころ閉館し、88年に撤去されました。

この後、山城興常さんは南宝(なんぽう)劇場という芝居小屋の他に、映画館として58年に鉄筋コンクリート2階建て万世館を開館させました。
そこでは、時代劇をはじめ、「君の名は」「カルメン故郷に帰る」「愛染かつら」などの往年の邦画の数々が公開されています。

(旧)万世館

さらに、90年(12月)に、都市計画事業の道路拡張に伴って、鉄筋コンクリート造り3階建てに建て替えられました。
1階は店舗と駐車場。2階が映画館、3階がアパート。
ドルビーシステムを導入し、縦3メートル50センチ、横7メートル50センチの大型スクリーンを設置、座席数は136席。
その万世館も、05年(12月)に閉館、06年(3月)にシネマパニック万世館と名前を改めて開館したものの、09年(1月25日)に閉館されたのです。

万世館

「私もね、ひとりで頑張ったところでどうしようもないのはわかってるんですが、少しでも売り上げに協力したくて、これくださいってパンフレットを買おうとしたら、いいからもってきなさいって(笑い)。万世館の閉館のお知らせはショックでした。
映画というのは、気楽に過去にタイムスリップできる。いつでも、どこでも、だれでも。今、ここに映画館がないのは、本当に寂しいです」と奥平さん。

奥平崇史さん

国際館・沖映館 父の面影

「私は、5歳のときに父が亡くなっていますので、父の記憶はあまりないんです。
でも、今、映画館に行って映画を見るのが好きなのは、父に会いにいくみたいな、そんな感覚なのかもしれません」
と、話してくださったのは、国際館(のちに八重山琉映国際館)(52年開館)を造られた石垣長泰(いしがき・ちょうたい)氏(1901~64年 享年64)の孫、田盛敦子(たもり・あつこ)(57)さん。

田盛敦子さん

「家が映画館でしたから、私は赤ちゃんのときから、母に抱かれていつも映画を見ていたらしいんです。内容が分かるはずもないのに、悲しい場面では母と一緒に涙をポロポロさせてよく泣いてたって聞かされました。
いまでも、よく映画を見て号泣しますが、私の感受性は映画で養われたのかなあって思うんです」

八重山琉映国際館

国際館の建物はコンクリートブロック造り3階建て、収容人数1000人。
初興行上映の「東京のえくぼ」は、見物人が列をなす大盛況。
 
材木屋を営んでいた石垣長泰氏は、国際館に続いて、八重山琉映館(58年6月13日)をオープンさせました。
1階、2階には居住スペース、銭湯やホテルも併設。
61年、八重山琉映館から沖映本館に改称したのち、64年に創業者・長泰氏が逝去し、田盛敦子さんのお父様、長秀(ちょうしゅう)氏が経営を引き継いだのですが、70年に35歳の若さで急逝。72年に閉館。



沖映館


石垣長秀氏名刺 裏面の平久保崎燈台のカラー写真

感情の波動を共有できる映画館

「父が亡くなって住んでいた国際館を出てから、引っ越し先の近くに親戚の石垣喜興(いしがき・きこう)さんがやってらした丸映館があったので、学校から帰ってくると家にランドセルを投げて映画館に行ってたんです。親戚だからって、顔パスでした(笑い)。
丸映館は洋画系。『小さな恋のメロディ』(71年)、中学のときに見た『スターウォーズ』(77年)とかが思い出に残っています。
85年から32年間石垣島を離れていて、実家を行ったり来たりしている間、丸映館がなくなり、シネマ石垣ができてよかったと思っていたらまたなくなり……。
17年に島に戻りましたら、翌年の18年に丸映館の場所にゆいロードシアターができましたが、それも20年の春に休館してしまいました。
私が今でも映画館が好きなのは、家業だったこともありますが、見ず知らずの不特定多数の人と、その映画を見て生まれた感情の波動みないなものが一緒に共有できること。
早く、ちゃんとした映画館が作られないかと期待しているんです」

日本最南端の劇場だった「ゆいロードシアター」

閉館後の丸映館を改装し、18年(8月)にオープンした島唯一の常設劇場ゆいロードシアター。
 
「ここは、古典舞踊のお披露目や、ご当地アイドルのホームシアターとして使われていて、そういった公演がないときに、映画を上映する。そんなスタイルの劇場でした。
私は、映画業務担当でした」
と話してくださる竹内真弓さん(44)は新潟県上越市出身、大阪の大学を卒業して、フリーランスで劇場の音響を生業としていた方です。
 
「私がそもそも何故石垣に引っ越して来たかというと、夫の親戚の空き家の管理で何度も訪ねているうち、琉球瓦が使われた八重山独特の家そのものがとても気に入ってしまったからなんです。
11年に結婚して、主人は東京で作家活動を続けていたので、17年に最初は単身で来ました。
今は、やはりコロナの影響で東京にこだわらなくてもテレワークなどでいろいろ対応できるので、一緒に暮らしています。
 
石垣島は人口約5万人(22年11月現在)。
市民公会堂という大きなところはあるけれど、小さな劇場、芝居小屋が一つもなくて、ならば作れないかと。とにかくこの島で、自分の仕事がしたかったんです。
ただ音響として(劇場で)働いたことはあるけれど運営はやったことがなかったので、すぐに、沖縄本島の老舗映画館桜坂劇場に問い合わせたら、運よくすぐにアルバイトで雇っていただけて、カフェも含めていろんな経験をさせてもらいました。半年くらい。
そしたら、石垣島で有志がミニシアターを立ち上げようとしているという情報を知って、映画上映をコンテンツの一つとして組み込むのはどうですかって売り込んで、ゆいロードシアターに採用していただけたんです。

那覇 桜坂劇場

18年8月にオープニングセレモニーもなく静かにスタートしたときは、まだコロナ前で、配給会社さんに、石垣島の現状を丁寧に説明したところ、大手さんは難しかったんですが、おかげさまで少しずつ作品を回していただいて、上映1作目は、『オキナワノコワイハナシ』というテレビ番組4本立てのオムニバスドラマでした」
 
19年正月は、「スパイダーマン:ホームカミング」「ジーマーミ豆腐」「simplife : a tiny house film」「0円キッチン」など多彩なラインアップ。
ところが、ゆいロードシアターは、コロナ禍の直撃をうけ、20年(4月12日)で幕を閉じました。わずか1年半の開館期間でした。

ゆいロードシアター

もぎりのおばあを目指して

「短い期間でしたが、ゆいロードシアターでは、地元の素直な声を聞くことができました。
何十年かぶりに映画館に来たよーとか、面白くないとか、(料金が)高いねーとか、それぞれ(笑い)。知り合いも増えました。
切実だ!って思ったのは、石垣島には、デートの場所の選択肢が少ないって聞いたことです。若い二人が、暗闇で並んで座って、一緒の映画を見るっていいですよね(笑い)。
 
私がこの島に来るずっと前、09年1月に閉館した万世館は、ご高齢の婦人がおひとりで、チケットを扱って、ポップコーンも売って、たとえお客さんが一人でも上映し・・・・・・。
特別な仕事ではなくて、町のおばあがやってるって感じが残ってたって、伺いました。
それが、なんかいいなあって思ったんです。
 
私の夢は、日本最南端の映画館マイクロミニシアター(笑い)。
例えば10席くらいでもいい。
この島の昔からの貿易相手として身近な台湾の映画とか、八重山の文化を紹介できるものとか、映画鑑賞を石垣島に来たという思い出の一つとして持って帰っていただきたい。
もぎりのおばあが目標です」と、竹内さんが話すと、隣に座っていらしたご主人の佑(ゆう)さん(45)が、「♪もぎりよ今夜もありがとう~♫」と。

竹内真弓・佑さんご夫妻

竹内さんは、現在石垣島在住の宮良麻奈美さんとともに“ゆいシネマを守る会 日本最南端の小劇場再建プロジェクト”を立ち上げ、次のステップを模索中。

石垣島 劇場・映画館の変遷

2009年に閉館した万世館の前身は、八重山館(歌舞伎座を改名)。
1929(昭和4)年に、当時、活動映写場としての認可を受けた、今でいう映画館でした。
 
芝居小屋だった歌舞伎座は、築4、5年で1924(大正13)年の台風で倒壊の憂き目に遭い、再建したもののライバル千歳座の勢いに勝てず、映画館(活動映写場)として活路を見いだしたのです。
 
当時は無声映画。
32年に、興行が再開された正月に上映されたのは、嵐勘寿郎主演「大利根の殺陣」と里見明主演の「宮津小唄」の2本立てでした。
洋画は、23年に製作されたアメリカ映画「湖畔の思い出(原題:The Fog)」が上映されるなど、ごくわずかのようでした。
 
時代が大きく変わったのは、38年、八重山館のトーキー設備の導入。
戦時中は軍国映画が上映され、敗戦後の一時期は映画上映はなくなり、娯楽映画が楽しめるようになったのは48年頃とされています。
戦前、台湾で上映されていた日本映画のフィルムが、ヤミ貿易ルートで入ってきたとか。
50年代には、本土ルートでフィルムが確保され、戦後の映画全盛時代を迎えたのです。

第7回 石垣編 石垣島の発展と台湾交流
https://hitocinema.mainichi.jp/article/llk1idto6vs
第8回 石垣編 カンムリワシ、具志堅用高
https://hitocinema.mainichi.jp/article/8k3sj7b-l4
第9回 石垣編 エピローグ
https://hitocinema.mainichi.jp/article/ilmyiadr-2

*イラスト 梅田正則プロフィル

1948年新潟生まれ。テレビ・映画美術監督。
テレビドラマ「北の国から」「踊る大捜査線」「ロングバケーション」「これから~海辺の旅人たち~」(主演:高倉健)、「若者たち2014」ほか数多くの作品の美術監督をつとめる。2022年、実写世界からアニメに挑戦。69~74歳まで6年かけて「ケンタのしあわせ」(3分55秒)を、梅田正則監督作品としてついに完成させた。

八甲田山

明治時代、八甲田山での死の行軍の全貌を描いたパニック大作。日露戦争を目前にした明治35年1月、青森第五連隊と弘前第三十一連隊は`白い地獄`と恐れられていた八甲田山に挑んだ。弘前は徳島大尉(高倉健)が率いる27人。青森は神田大尉(北大路欣也)率いる210人。徳島大尉は少数精鋭で案内人(秋吉久美子)に導かれ、自然と折り合いながらの行軍で全員帰還。しかし山田少佐(三國連太郎)が指揮を奪った神田隊は案内人も拒否して、自然を力でねじ伏せようと大寒波の中で遭難。生存者はわずかに12人だった。(追悼特別展「高倉健」図録より)

動乱 第1部 海峡を渡る愛/第2部 雪降り止まず

2・26事件を背景にひと組の男女の悲恋を描くメロドラマ。第1部「海峡を渡る愛」。昭和7年、仙台連隊。初年兵のい溝口(永島敏行)が脱走した。姉の薫(吉永小百合)が貧しさのために身を売ろうとしたからだった。溝口は銃殺されるが、追ってきた宮城大尉(高倉健)は父(志村喬)から金を借りて薫に差し出した。ますます開く貧富の差に怒った一部の将校が立ち上がった。5・15事件である。やがて宮城は朝鮮に飛ばされるが、そこで芸者となった薫と再開する。第2部「雪降り止まず」。東京。第一連隊に所属している宮城は朝鮮から連れ帰った薫と居を構えている。折から昭和維新の声が高まり、宮城はリーダーの一人に祭り上げられる。そして昭和11年2月26日、宮城たちの皇道派の青年将校が立ち上がった。(追悼特別展「高倉健」図録より)

海峡

津軽海峡の海底トンネル工事をする男たちの苦闘を描く。昭和29年、青函トンネル技術調査団員の阿久津(高倉健)は海峡を調べ始めた。阿久津が集めた労働者の中には超ベテランの源助老人(森繁久弥)、洞爺丸の事故で両親を失った仙太(三浦友和)などがいる。かくして長い年月が経ち、阿久津も中年になったが、トンネルはまだ半分にも達していない。トンネルに大出水が起き、最新最高の技術を駆使する人間は自然との闘争に挑む。(追悼特別展「高倉健」図録より)

ライター
ひとしねま

小田貴月

おだ・たか 株式会社高倉プロモーション代表取締役
東京生まれ。女優を経て、海外のホテルを紹介する番組のディレクター、プロデューサーに。96年、香港で高倉健と出会う。13年、高倉健の養女に。
著書に、「高倉健、その愛。」、「高倉健の美学」、「高倉健の想いがつないだ人々の証言~私の八月十五日」。

カメラマン
ひとしねま

小田貴月

おだ・たか 株式会社高倉プロモーション代表取締役
東京生まれ。女優を経て、海外のホテルを紹介する番組のディレクター、プロデューサーに。96年、香港で高倉健と出会う。13年、高倉健の養女に。
著書に、「高倉健、その愛。」、「高倉健の美学」、「高倉健の想いがつないだ人々の証言~私の八月十五日」。

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