「アフター・ヤン」ⓒ2021 Future Autumn LLC. All rights reserved.

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2022.10.17

大切な人を喪った悲しみ 感情を伝えるカギは…… 「アフター・ヤン」:いつでもシネマ

藤原帰一・元東京大法学政治学研究科教授が、新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。

藤原帰一

藤原帰一

とってもとっても美しい映画、「アフター・ヤン」が公開されます。監督したのはコゴナダ。風変わりな名前ですが、小津安二郎の映画に数多くの脚本を書いた野田高梧の名前にちなんで、いわば筆名のように監督が選んだものです。これだけでも小津の作品に影響を受けていることがわかりますが、このコゴナダさん、たいへんな映画通なんです。映画論をビデオエッセーとして発表しており、その多くはvimeoというサイトから見ることができます(ホームページはこちらから)。
 

 

小津に学んだミニマリズム

このコゴナダさんのビデオエッセーが実に魅力的でして、小津安二郎はもちろん、アルフレッド・ヒチコックやスタンリー・キューブリックなどの歴史的監督から是枝裕和やウェス・アンダーソンのようないま第一線の映画監督に至るまで、映像と音を再構成してその映画作家の表現をたどり直す、映像による映画評論なんですね。映画批評は言葉によって映像と音を評価するという矛盾を抱えていますが、ビデオエッセーという形を取ることでその矛盾を克服したといえばいいでしょうか。
 
フランソワ・トリュフォーやピーター・ボグダノビッチをはじめとして、優れた映画批評から出発して実際に自分で映画を撮るようになった人は少なくありませんが、コゴナダさんも実作に向かい、前作の「コロンバス」は現代建築の代表的な作品がいくつも建ち並ぶインディアナ州コロンバスで、建築家の息子と、現代建築を愛する女性との出会いを描きました。画面に映し出されたものはすべて計算されており、無駄というものがまるでない。構図も照明も精細極まりなく、シンプルな美への固執が出てくる俳優の捉え方にまで及んでいる。映画におけるミニマリズムといえば小津作品が頭に浮かびますが、小津監督の美学に学んだ美しい映画でした。

 

無駄なもの、醜い物ものがない

この「アフター・ヤン」もミニマリズムの映画です。画面に映るものの中には無駄なものも醜いものも何もない。モダンアート、それもここにアートがあるなんて自己主張のない、ただシンプルで美しい建築、家具、置物しか出てきません。トリュフォーの「華氏451」をお考えになればおわかりのようにモダンな空間はSFにぴったりですが、この「アフター・ヤン」も舞台は未来。ジェイクとカイラは、娘のミカ、そして人間そっくりのロボットのヤンとともに暮らしています。映画の冒頭は記念写真の撮影なんですが、そこでジェイク、カイラ、ミカと一緒に映るのがヤンなんです。
 
人間そっくりといいましたが、このヤン、文字通り家族の一員でして、娘(養女)のミカはヤンと一緒じゃないと何もしようとしないくらい。ところがヤンが動かなくなってしまう。ショップに連絡を取ると、これは修理できない、買い替えるほかはないといわれてしまいます。でもヤンは家族の一員、ミカのお兄さんなんですから、ほかのロボットに取り換えるなんてジェイクにはとても考えられない。そこで動かないヤンをアンダーグラウンドの修理屋に持ち込み、さらに博物館の専門家の意見も求め、ヤンのなかに組み込まれていたメモリーバンクを取り出すことに成功します。ジェイクは、メモリーバンクに含まれていたヤンの記憶、まだ幼い頃のミカなどの映像を、ひとつひとつ探り出し、たどってゆきます。
 

消えてしまった記憶をたどる物語

このようにあらすじをご紹介すると、ちょっと「ブレードランナー」、それも本編と、その後日譚(たん)の「ブレードランナー2049」と合わせた、記憶を求める旅みたいな感じですね。死んだら記憶はなくなってしまう。記憶された瞬間は、雨のなかの涙のように消えると口にしたのは「ブレードランナー」の終わり、死を迎える直前のレプリカントでした。そう、この「アフター・ヤン」は、雨の降る中で流れる涙のように消え去ってしまったヤンの記憶をたどる物語です。
 
静かなビジュアルが中心の映画という点では「ブレードランナー2049」との共通性があるんですが、SFとはいってもアクションシーンなんてありませんし、ハイテクも出てこない。ヤンは人間じゃなくてロボットなんですから、修理はできるだろう、動かなくなったヤンもやがて動き始めるだろうなんて期待を持って私は見てたんですが、修理ができないまま映画は進みます。ロボットと人間の物語というよりも家族の一人を喪(うしな)った、その悲しみの物語というべきでしょう。


 

感情の地形を描き出す旋律

映画の基調は、その喪失感の表現に置かれています。ただ、ジェイクを演じるコリン・ファレルはいつにもまして存在感のある上手な演技ですし、絞り込まれたセリフも映像もすべてシンプルで美しいんですが、それだけではきれいな置物みたいなもので、喪失感を伝えることはできません。でも、喪失感、あるんです。大切な人を喪った悲しみは映画によって表現されている。それがどこから来るんだろうと不思議に思って何度か見返したんですが、それによってわかったのが、この映画における音楽の役割でした。
 
ヒチコックやオーソン・ウェルズの映画に作曲したバーナード・ハーマンが、映画にどうして音楽が必要なのか誰にもわからないと喝破したことがあります。それでも音楽なしに見るに堪える映画なんてほとんどありません。音楽が感情を引き出す役割を果たしているからです。効果音ばかりでなく、旋律が流れることによって、エモーション、感情の地形が描き出され、それを通して私たちは映画を経験することができます。監督や俳優に比べてその役割が重視されることの少ない音楽ですが、映画表現には欠かせない要素なんです。
 

奥行きを生んだ坂本龍一の音楽

「アフター・ヤン」の作曲を担当したのはAskaと坂本龍一。坂本龍一が数多くの映画音楽を作曲してきたことはご存じの通りですが、最近の作品では「戦場のメリークリスマス」や「ラストエンペラー」のような感情の高まりと結びついた音を意識的に避けて、ほんの僅かな音を、音と音の間の沈黙と合わせて伝えるような作曲に転じていました。
 
でもこの「アフター・ヤン」に坂本龍一がつけた音楽は、エモーションを駆り立てるような音に満たされています。映像がストイックなほど絞りこまれていて、俳優もそのストイックな空間を破ることのないような静かな表現に終始しているのに、音楽が感情を伝えているんです。大切な人を喪った悲しみに音楽が寄り添っています。感情を駆り立てるような映画音楽、私、実は嫌いなんですが、この「アフター・ヤン」は例外。ただ美しいだけの映像に音楽が加わることによって映画に奥行きが生まれています。
 
その人はもう帰っては来ない。でも、その人のことは忘れない。喪失と記憶を映像と音楽によって表現した美しい映画です。
 
10月21日公開。

アフター・ヤン

茶葉の販売店を営むジェイク(コリン・ファレル)の家で、家族同然に暮らしていたロボットのヤン(ジャスティン・H・ミン)が故障して動かなくなってしまう。ヤンを兄のように慕う養女のミカは悲しみにふさぎこみ、ジェイクはヤンの修理を試みる。ヤンの体内から見つかった特殊なメモリーには、ヤンの〝記憶〟の映像が記録されていた。ジェイクが映像を見ていくうちに、ヤンが秘めていた過去が明らかになる。

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ライター
藤原帰一

藤原帰一

ふじわら・きいち 千葉大学国際高等研究基幹特任教授。1956年生まれ。専攻は国際政治。著書に「戦争の条件」(集英社)、「これは映画だ!」(朝日新聞出版)など。「映画を見る合間に政治学を勉強しています」と語るほどの映画通。公開予定の新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。