北海道厚真町の勇払原野で映画「影武者」を撮影中の黒澤明監督=北海道厚真町で1979年10月、平嶋彰彦撮影

北海道厚真町の勇払原野で映画「影武者」を撮影中の黒澤明監督=北海道厚真町で1979年10月、平嶋彰彦撮影

2023.11.27

第4回 最後の監督作「メカゴジラの逆襲」 黒澤明に請われ「影武者」で現場復帰

「ゴジラ-1.0」がヒット街道をばく進している。山崎貴監督は1954年公開の「ゴジラ」第1作を強く意識し、終戦直後の日本に「戦争の象徴」としてのゴジラを登場させた。初代ゴジラの生みの親の一人、本多猪四郎監督が1992年10~11月のロングインタビューで語った半生と映画への思いを、未公開の貴重な発言も含めて掲載する。「ゴジラ-1.0」を読み解く手がかりとなるコラムと合わせて、どうぞ。

神保忠弘

神保忠弘

――「ゴジラ」が大ヒットした1954年は日本映画の黄金期。58年には年間観客動員数が11億2745万人に達している。しかしこの年をピークに観客動員数は急激に減り始め、10年後の68年には3億1339万人に落ち込み、なおも減り続ける。映画会社は製作体制の縮小、人員削減に手をつけた。
 
昭和30年代の後半ぐらいから、映画全体が斜陽になり始めました。やっぱりテレビの普及が一番大きいんじゃないかな。そうなると撮影所の製作本数も減っていく。そうして僕は、会社の方針でだんだんと特撮物専門になっていったんですよ。でも、僕はこのジャンルが好きだったから、嫌ということはなかった。特撮物を撮ったことで評価も受けたんだしね。悔いはありませんよ。むしろ自分にった分野に巡り合えた喜びの方が大きかったと思う。そうでない監督もたくさんいたんだから。

テレビには違和感 「2時間ものを1週間で撮れと言われても」

その僕も昭和40(1965)年に会社との契約が切れてフリーになりました。当時はどんどん状況が悪くなってねえ。撮影所は楽しいことなんか、何にもない雰囲気だった。テレビからも誘われたけれど、まだ違和感があったんですよ。2時間ものを1週間で撮るとかいうんだから、映画の世界に生きてきたものには考えられないよ(笑い)。
 
本当に撮影所が次から次へとスタッフとの契約を切っていくのだから「どうする気なのだろう」と心配になりました。(製作)本数は減るばかりだし……。人も採用しなくなったから、企業が人を育てるということが完全になくなった。技術が伝えられないんですよ。人材をどうする気なのか、と思ったな。配置転換がどんどん進んで、ベテランの照明マンが映画館の切符のもぎりをやらされたりした。嫌といったら解雇だもの。日本映画の衰退の原因は、あのころ人を育てるシステムが完全になくなったことにありますよ。
 
いま撮影所に行くとね。照明とか小道具とか、各パートがバラバラに仕事をしているんですよ。分業化が進んでね。ハリウッド的な気もするのだけど、昔はもっとスタッフ一人一人が作品に対する思い込みを持っていた気がする。
 
昭和50年の「メカゴジラの逆襲」を最後に、自分の監督作品というのはないですね。それからしばらくは、自分の映画をビデオ用に編集する仕事なんかをしていた。あれはつらい仕事です。シネスコ用に撮ったものをテレビ画面にするんだから、あちこち切っても無理がでる。作品を壊すんですよ。嫌だったなあ。


映画「影武者」を撮影中の黒澤明監督=北海道厚真町で1979年10月、平嶋彰彦撮影

人材育たず 技術継承されず

――映画界の斜陽化が進む中、1970年代には大映は倒産、日活はロマンポルノ路線にかじを切った。東宝は映画製作部門を切り離して別会社とし、自社製作を縮小した。それでも観客動員減少に歯止めはかからず、90年の観客動員数は1億4600万人にまで落ち込む。
 
ハリウッドというか、アメリカはね。例えば小道具係でも椅子の担当者は絶対に机を見ないし、机の担当者は逆に絶対に椅子を見ない。目の前にあるのにね。それが合理的なのかもしれないけれど、僕はやっぱり違うと思う。スタッフみんなが、その作品に思い入れを持つべきだと思うけどね。
 
特撮・SF物に限らず、昭和30年代の日本映画の質はスタッフの熱意が支えていました。SFなんかでも、本当に好きな人が集まっていたからね。あと忘れちゃいけないのが、「大部屋」と呼ばれた俳優さんたちです。さまざまな映画に脇役として出てくる大部屋俳優の人たちが画面に厚みを加えていた。こういった撮影所システムが映画の斜陽化によって崩れた時に、日本映画から厚みはなくなったんですよ。
 
とにかく昔の技術を伝承するシステムはなくなってしまった。これを復活させることは、まず無理でしょう。となると、後は映画に携わっている人が、自分で映画を見て勉強し、自ら受け継いでいくしかない。あと、これからの若く才能のある作家は「日本映画」という枠を超えて世界、特にアメリカで商売ができる仕事をすべきですね。いまや映画というものは、日本国内だけではペイしきれないですよ。国境を超えて仕事をすることが、日本映画復活のカギかもしれない。

「一緒にやらないか」声かけられ

――黒澤明監督は、本多監督より1年早い1910年生まれ。PCLで山本嘉次郎監督の助監督に就いた同門だ。本多監督がプログラムピクチャーを撮り続けて東宝を支えたのに対し、黒澤監督は東宝争議後に会社を離れて独自の道を歩む。本多監督は75年の「メカゴジラの逆襲」以降、監督からは遠ざかるが、黒澤監督の「影武者」に演出補佐として参加。以降の黒澤作品の現場に欠かせぬ存在となった。
 
昭和55年にクロさんの「影武者」の演出部チーフとして現場に復帰するんですが、それまでの5年間、不思議と映画の世界から離れてしまうとは思わなかったな。いつでも(現場に)参加できる状況だけは作っておいた。昭和54年の初めぐらいだったかな。クロさんが「一緒にやらないか」と声をかけてきた。当時、クロさんが近所に引っ越してきたので、一緒にゴルフの練習をしたりしていたんですが、世間話のついでみたいに声をかけられた。僕も自然に了承した。
 
山本さんの下で一緒に助監督として働いてから50年近くたっていたわけだけれども「また、あの頃みたいに仕事をしようか」という感じだった。現場に久しぶりに立った時の気持ちは、それは良かったですよ。「用意、スタート!」という掛け声を聞いたときにはね、血が騒ぐというか、そんな気持ちになりましたね。


「夢」の撮影現場で指示を出す黒澤明監督=1989年5月、長野県穂高町(現安曇野市)

「クロさん」「イノさん」独特の関係

それから「乱」(1985年)、「夢」(90年)、「八月の狂詩曲」(91年)、「まあだだよ」(93年)と全部一緒にやっているけれど、クロさんの現場における僕の役割というのは、言葉で説明するのは難しいなあ。外目には助監督に近いんだけれど、B班撮影もするしね。特にクロさんにアドバイスするとかいう立場にもないし。
 
例えば、ある撮影をしていてBカメの横にいる僕に向かって、クロさんが「イノさん、いま変な顔しただろう」とか声をかけることがある。そう言われたら僕が「ちょっとBカメがね……」と返事したりする。すると「そうか、じゃ、撮り直すか」となることもあるんですよ。そういう時はクロさんが何となく納得していない時なんだね。
 
ただ、僕が演出に口を挟んでいると思われたら困ります。監督はあくまでクロさんなんだし、判断はすべてクロさんがくだすんですからね。クロさんも僕も、黒澤明が映画を撮るときは僕が一緒にやるのが自然みたいな感じでね。他人には(理解が)難しいんじゃないかな。
 

監督が1人で統括すべきだけれど

クロさんは編集を全部自分でやってしまうんですよ。撮影現場にムビオラを持ち込んでね。撮影の合間に、その日に上がってきた分のフィルムをどんどん編集していっちゃう。だから撮影が全部終わるころには、編集のほうもほぼ終わっているんです。こういうのはクロさんだけだなあ。普通は撮影が全部終わってから、改めて編集作業に入るんだけどね。クロさんは「撮った時にいいと思った感じを忘れないうちに編集しなきゃダメ」と言うんだな。
 
アメリカなんかは編集がセクションとして独立しているので、監督は撮るだけ撮ったら、あとは編集マンにお任せになってしまうらしいけれど、日本はそうじゃないね。やっぱり編集は監督がやらなきゃいけないと思いますよ。映画というのは、やはり監督のものなんです。監督の撮りたいものを撮る。これが一番大事なんです。
 
だから本当はね、特撮場面も監督が演出すべきなんですよ。東宝の場合は、円谷さんという大変優れた技術を持った人と、そのスタッフがいたことで「特技監督」という制度を作ったわけですが。あと時間的な問題もあった。現実的な話として、監督が両方を見ている時間はなかった。僕は1本、特技場面も演出したことがあるけれど(「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」)、それはまあ、大したことのない作品だった。けれど本当は、監督は1人でなきゃいけませんよ。
 
軍隊生活の作品への影響ですか? あまり考えたことはないなあ。ただ怪獣映画なんかに登場する自衛隊の扱い方なんかに経験が生かされているかもしれない。クロさんの「夢」(1990年)なんかでも、亡霊の兵隊が出てくるパートでは、役者さんが軍隊経験のない若い人たちばかりだから、僕が軍事教練したんですよ。クロさんは軍隊経験がないんだなあ。僕が8年でクロさんはゼロ。人の運命ってのは面白いものですよねえ。

ライター
神保忠弘

神保忠弘

じんぼ・ただひろ 毎日新聞社元運動部長、元同部編集委員。仕事につながっていた昭和のプロ野球をはじめ、昭和の芸人、昭和のプロレス、昭和のマンガ、そして何より昭和の特撮を愛する「昭和40年男」。

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