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2024.12.02
「映画は映画館で」「暴力を消費するな」 イタリアの名匠からほとばしる映画愛と現代への提言
イタリアの名匠、ナンニ・モレッティ監督の新作「チネチッタで会いましょう」には映画製作の苦悩と喜びが、知的で辛辣(しんらつ)、軽妙なユーモアとアイロニーたっぷりに描かれている。50年近いキャリアの間にカンヌ、ベネチア、ベルリンの3大映画祭を制覇し、ますます深みと鋭さを増すモレッティ監督。ローマとのオンライン取材の端々に、現在の映画作りへの疑問符と映画愛があふれていた。
新作「チネチッタで会いましょう」はこんな物語だ。映画監督ジョバンニは、イタリア・チネチッタ撮影所での新作撮影を目前に控えていた。本人は、1956年のソ連のハンガリー侵攻時、イタリア共産党がソ連から脱却しようとする政治映画を撮っているつもりだが、女優が演出に口出しして恋愛映画だと主張し始める。40年もそばにいたプロデューサーの妻は別れる勇気を得るために精神分析医に通い、若手監督の暴力映画をプロデュースしている。娘は自分ほどの年齢の男と結婚すると言い出し、あげくに自作のプロデューサーが詐欺師だと発覚する。果たして映画は完成し、愛する人たちとの関係は修復できるのか……。
ジョバンニは自分そのもの
モレッティ監督には「ナンニ・モレッティのエイプリル」(98年)、「母よ、」(2015年)など、映画の中で映画を撮る作品が何本もある。主人公の監督は、多くが自身の分身で、時々の社会への違和感などが盛り込まれている。「ジョバンニはその中でも、自分に似ている。考え方も完璧に同じ」と歯切れよく語り始める。
「私の作品はいつも多層的です。しばしば舞台や映画の中の映画が出てきて、いくつもの層が関わり合いながら同時進行していく。この映画の主人公は、現代にうまく適応できていない。時代と感覚が合っておらず、居心地の悪い思いをしている人間を描きたかった」と付け加えた。
自分に限りなく近い監督が主役の一方で、映画を作る際に観客を意識するか聞いてみた。「観客のことは考えていないと言ってきたが、実際のところはわからない。ただ、自分に観客の好みが分かっているとは思えない。毎回、その映画を撮る必要があると思っているし、世界や人々に抱いている感情を描きたい。観客の期待に応えるよりも、私の映画に歩み寄ってくれることを期待しながら撮っている」
©2023 Sacher Film-Fandango-Le Pacte-France 3Cinema
暴力を礼賛していることに気づいていない
現代の映画製作や興行、動画配信サービスへの疑問を呈したシーンがいくつも登場する。ジョバンニが製作資金を求めて会ったNetflixの人間は「世界190カ国で見られている」と何度も繰り返すし、妻がプロデュースするアクション映画の暴力シーンに割って入って、撮影をストップさせてしまう。コミカルでアイロニーにあふれている場面を、モレッティ監督はシンプルに「全くあの通りなんだ」と言い切った。
「暴力描写に対するジョバンニの考え方は、100%同感だ。今は、監督もプロデューサーも、自分たちがどういう映画を撮っているか分かっていない」と指摘する。「暴力が描かれている映画をすべて否定するわけではない。ただ、暴力が消費的に扱われていることが問題だ。彼らは、自分たちが暴力をいかに礼賛しているか、気づいていない」
世の中のことは知らないフリで
モレッティ監督はコンスタントに映画を作り続け、日本では見る機会は少ないが短編やドキュメンタリーも多く発表している。ジョバンニと同じように映画作りにおける環境の変化を日々感じている。「非常に残念なのは、多くの人にとって暗い劇場の大きなスクリーンで映画を見ることが過去のものになってきているということだ。ただ、自分としてはそれを知らないフリをして、いつまでも大スクリーンで見るものとして映画製作を続けている」。モレッティ監督の言葉のテンションが上がっていく。「今のところとても恵まれた状況で、撮りたい映画をやりたい方法で撮れている」
それを聞いて思わず「〝フリ〟を続けて、撮り続けてください」と返すと、「グラッチェ、グラッチェ」とにこやかな表情を浮かべた。「取材をあまり受けたがらない監督」というウワサを聞いていたが、飾り気がなく人懐っこさが伝わってくる。
フェリーニ、キェシロフスキ、スコセッシ
作品の中で、フェデリコ・フェリーニ、クシシュトフ・キェシロフスキ、マーティン・スコセッシといった監督の名前が登場し、彼らの作品へのオマージュがささげられている。中でもフェリーニへの思いは特別だ。「映画を撮る人間にとってフェリーニは避けて通れない。一番大事な作家と思っているし、観客としても監督としても最も絆を感じる」として、「甘い生活」(60年)、「8 1/2 」(63年)、「カビリアの夜」(57年)、「青春群像」(53年)などのタイトルを挙げ「特に心に残る作品」と話した。「こうしたフェリーニの作品は、60~70年たっても全く老いることがない」と独特の言い回しで続け、自身の映画についても「年をとらない映画であってほしいと願っている」と語る。
この映画のラストは、登場人物や過去のモレッティ作品の俳優らが笑顔で歩くシーンだ。家族との関係も思うようにいかず、苦難ばかりの映画作りだが、みんな明るく晴れ晴れとした表情を浮かべている。「〝映画〟への賛歌のつもりだ。映画とは映画館で見るもので、今でも変わらない魔法の力を持っている。本作のフィナーレでも、映画は歴史を書き直す力があると示している」
最後に、自身の監督作品の多くに自ら俳優として出演していることについて、こう語った。「役者をやる時も、役になり切ってトランス状態になるわけではない。演じている時も監督としての自分はその中にいる。演じた後にモニターを見てすぐにカットをチェックできるので、両立することはそれほど難しいことではないんだ」と説明。監督と俳優を頭の中で同居させながら、役を演じていると明かした。