「アウシュヴィッツの生還者」© 2022 HEAVYWEIGHT HOLDINGS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

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2023.7.20

生き別れの女性を探すボクサーが背負った戦争と虐殺のトラウマ 「アウシュヴィッツの生還者」:いつでもシネマ

藤原帰一・千葉大学特任教授が、新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。

藤原帰一

藤原帰一

アウシュビッツ強制収容所に送られながら生き延び、ボクサーとしてアメリカで活躍した男の物語。こんなふうに紹介すれば、苦難に押しつぶされることなく努力を重ね、やがて栄光を手にするなんて展開を想像しそうですが、そうじゃありません。極限状況を経験したために心を閉ざした男の物語です。
 


 

大試合きっかけに手がかり求め

ハリー・ハフトは、兄とともにアウシュビッツから生還してアメリカに渡り、いまはボクサーをしています。ボクサーとしての異名、キャッチコピーは、アウシュビッツの生還者。生き残ったのが売り物の選手です。ハリーの願いは、収容所の時に知り合い、生き別れになった女性、レアの行方をつきとめることです。まだわからないのか、ちゃんと探してないんじゃないかなんてハリーは支援団体の人を面罵するんですが、いくら手をつくしても、レアが生きているかどうかさえわかりません。
 
レアに自分のことを伝えるのがハリーの執念になります。収容所で何があったのか、ハリーはそれまで話そうとしなかったんですが、レアと再会したい一心から、収容所での経験を教えてほしいという新聞記者の要請を受け入れます。さらに、自分よりもずっと強く、チャンピオンまっしぐらのボクサー、ロッキー・マルシアノとの試合まで実現させる。記者の取材も大試合も、レアの目に届くようにするためのハリーの努力でした。


 

生き延びるために命懸けた戦い

じゃ、ハリーはどうやって強制収容所を生き延びたんでしょうか。それは、ボクサーとしての素質を親衛隊の将校に認められ、ナチの主催する賭けボクシングに登場させられたからでした。このボクシングがどうにもひどいものでして、収容所の囚人を相手が倒れるまで素手で戦わせ、負けた方は即座に射殺されてしまう。試合を見るナチにとって、これは収容所での娯楽、パーティーの余興に過ぎませんが、戦う方の囚人たちにとっては生死の争いです。ハリーは、将校の命じるボクシングを続けることによって虐殺を免れたんです。
 
強制収容所では、収容所の囚人が死体処理などの用務を命じられていました。傑作映画「サウルの息子」にも描かれた収容所の労務部隊、ゾンダーコマンドですね。でも、ハリーの場合はゾンダーコマンドよりもさらに踏み込んで、生き延びるために収容所の同胞と戦うわけです。負けたものが殺されることを知りながらボクシングをするわけですから、同胞のユダヤ人殺害に手を貸したと言われても仕方ありません。


 

頑固なボクサー支える頑固な支援女性

実際、取材に基づいた新聞記事が発表されると、ナチに手を貸した裏切り者として、ハリーはニューヨークのユダヤ人社会からつまはじきにされます。ロッキー・マルシアノとの試合では3ラウンドで倒されてしまう。それでもレアから連絡はありません。自分の過去を公開したのに、生き別れになった女性の行方も生死もわからないままです。
 
収容所から生還した背景が公開され、大事な試合には負けたんですから、いいことなし、ですね。そして、ハリーのキャラクターも、頑固で粗暴な一方で人に心を開くということがない。それでも生還者支援団体に勤める女性、ミリアムは、ハリーの人探しを手伝い、温かく接して、その心を開こうとする。ハリーが頑固ならミリアムも頑固なわけで、ここからゆっくりとドラマが展開してゆきます。


心閉ざす生還者の罪悪感

プリーモ・レービの「これが人間か」を代表として強制収容所の生還者による証言はいくつもあります。それでも、収容所経験者が心のなかで何を感じ、考えているのか、知ることはごく難しいと言わなければなりません。つらい記憶を言葉にすることはそれだけでも苦しいことですから沈黙のなかに抱え込んでしまうことが多いわけですが、それに加えて、他の人が亡くなったのに自分が生き延びたことが罪の意識を生み出してしまう。悪いのはナチであって自分ではないのに、この罪悪感、サバイバーズギルトが生還者の口を重くしてしまいます。
 
そして、外の世界から自分の心を閉ざしてしまう。生還者を描いた傑作にシドニー・ルメット監督の「質屋」がありますが、ロッド・スタイガーの演じるその主人公は、収容所で妻と2人の子供を殺された後、感情を一切示すことのない人間になってしまいます。この「質屋」のロッド・スタイガーのように「アウシュヴィッツの生還者」のハリーも、感情を押し殺して暮らしています。感情が表れるのは、強制収容所の記憶がフラッシュバックのように戻ってきたとき。強制収容から時間がたった後も、限界状況の記憶が現在の生活を脅かし続けるんです。

 

ビッキー・クリープスはじめ豪華キャスト

渋く、厳しい映画ですが、とんでもなくメジャーな人が加わりました。監督のバリー・レビンソンは食堂に集まる若者の姿を捉えた小品佳作「ダイナー」でデビューした後、ロバート・レッドフォードの野球映画「ナチュラル」、そして何よりもサバン症候群の男をダスティン・ホフマンが演じた「レインマン」(アカデミー監督賞)などの優れた作品を次々に発表した人。俳優もすばらしく、ハフトのガールフレンドのミリアムを演じるのは、この人が出るなら見なくちゃというくらいいい映画に次々と出ている、いま注目のビッキー・クリープスですし、新聞記者役はピーター・サースガードですし、さらにダニー・デビートまで加わっているので、もうオールスターキャストですね。
 
なかでも注目はハフトを演じるベン・フォスター。心を閉ざした生還者という役ですから、下手をすると同じような表現が続くために観客が飽きてしまう危険がありますが、厚い甲羅で覆ったような上辺の下にある負けん気、弱気、何よりも恐怖をしっかり伝えているために、この映画の味わいを深めることに成功しています。ロッド・スタイガーに匹敵する名演です。
 
こんな映画見たことない、とは思いません。むしろ、収容所で強制を強いられる囚人は「サウルの息子」、心の冷えた生還者は「質屋」、そして頑固で粗暴なボクサーは「レイジング・ブル」というように、過去の映画がいくつも想起させられるような映画です。それでも、戦争と占領の暴力とトラウマを、昔の話として突き放すことはできないでしょう。最後に少しだけ希望を残してくれるんですが、それなしには見ていられないような重い映画でした。
 
「アウシュヴィッツの生還者」は8月11日公開。

ライター
藤原帰一

藤原帰一

ふじわら・きいち 千葉大学特任教授、映画ライター。1956年生まれ。専攻は国際政治。著書に「戦争の条件」(集英社)、「これは映画だ!」(朝日新聞出版)など。「映画を見る合間に政治学を勉強しています」と語るほどの映画通。公開予定の新作や古今の名作の見方を豊富な知識を交えて軟らかく紹介します。