1979年に公開された「マッドマックス」は、その大胆な世界観と斬新なアクションでカルト映画の金字塔となりました。3部作でいったん幕を閉じながら、30年を経て奇跡的復活、スケールを拡大して世界を席巻しています。第1作から最新作「フュリオサ」まで、シリーズの全体像と影響を振り返ります。
2024.5.29
進化する伝説「マッドマックス」 闇雲で無鉄砲なジョージ・ミラーの〝終末世界〟と〝暴力〟
伝説は生まれるべくして生まれるもので、決して計画的に生み出されるわけではない。アクション映画の金字塔であり、今もなおその伝説を更新し続けている「マッドマックス」シリーズも、1作目が公開された1979年時点では、映画の世界の辺境にすぎなかったオーストラリアで、無名のスタッフ&キャストによって製作された低予算映画にすぎなかった。
低予算で未完成でも得体のしれぬ魅力 第1作
「マッドマックス」©1979 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
医学生から映画監督を志すようになったジョージ・ミラー監督は、若くして目の当たりにした暴力や死のイメージを、バスター・キートンやハロルド・ロイドのサイレント映画のようなシンプルさで映画に落とし込むことを思い立つ。おりしもオーストラリアでは暴走族が社会問題化しており、凶悪なバイカー集団と、法の枠を超えて立ち向かう警官との戦いをカーチェイス満載のバイオレンスアクションに仕立てあげた。ディストピア的な近未来に設定したことは、過剰な暴力に満ちた世界観を観客に納得してもらうための手段だったという。
とはいえジョージ・ミラーの構想がいくらデカくとも、予算も経験も乏しい新人監督には苦難の連続だった。ミラーは後に「マッドマックス」1作目をつらい経験だったと振り返っており、作品の出来も不本意なら、世界的監督になる扉を開き、45年たってもなおシリーズの新作を手がけている未来が訪れるだなんて夢想すらしていなかったはずだ。
実際のところ、今あらためて「マッドマックス」を見直すと、質素と言っていいほどにささやかな規模の映画ではある。主演に抜てきされたメル・ギブソンは、スターとなった後の姿とは像が一致しないくらいの細面の青年で、シリーズのイメージを決定づけた「荒廃した未来世界」というコンセプトもまだ完成していない。オーストラリアの田舎町で地元警察と暴走族が衝突する様子が、つたなくも荒々しく描かれているにすぎない。
しかし「マッドマックス」はその無名さやぎこちなさゆえに、得体(えたい)のしれない魅力を放つことになった。縁もなじみもなかったオーストラリアののどかな景色の中、見たこともない役者(とスタントマン)たちが危険なアクションを繰り広げている。その闇雲(やみくも)な無鉄砲さは、きれいにパッケージ化されたハリウッド映画からは得られないものだった。
辺境の地・豪州の熱風
いや、60年代末のハリウッドでは若い世代が闇雲なエネルギーをぶつけるようなアメリカンニューシネマのムーブメントが起こっていたが、70年代後半にはすでに勢いを失っており、ホドロフスキーやダリオ・アルジェントら刺激的な映画作家の作品は非アメリカ圏から届けられていた。「マッドマックス」も、世界が注目すらしていなかったオーストラリアから刺激的な熱気を吹き込んだのである。
「アクションシーンでスタントマンが死亡」というデマがまことしやかに語られたのも、辺境の地から届けられた得体のしれなさゆえ。後にも先にもありえないデタラメさがあの瞬間にだけ成立したことも、「マッドマックス」のカルト化にひと役買ったことは間違いない。
「マッドマックス」は世界的な大ヒットとなり、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」に抜かれるまで「製作費に比して最も利益率の高かった映画」としてギネスブックにも載った。そして当然のごとく続編が作られることになるわけだが、ジョージ・ミラーにはさらなる壮大なビジョンがあった。そしてミラーが思い描くキャンバスがどれだけ途方もないものなのか、まだ誰もわかっていなかったのだ。
ディストピア決定づけた「マッドマックス2」
「マッドマックス2」©1981Kennedy Miller Entertainment Pty., Ltd.©1981Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
果たして「マッドマックス2」は現在まで続くシリーズのイメージを決定づける看板作となり、「核戦争後の地球」という表現に象徴される(劇中で明言はされていないが)ディストピアのひとつのひな型を作り上げた。「マッドマックス2」の世界をほぼそのままいただいた形でスタートしたのが「北斗の拳」であることはあまりにも有名だし、世界中で乱立した「マッドマックス」フォロワーな表現は、ほぼ「マッドマックス2」から派生しているといっていい。
社会秩序が崩壊した未来の地球。見渡す限りの荒野と砂漠。車とバイクと暴力がものをいう弱肉強食の価値観。人間たちがだまし合い、奪い合い、殺し合う中で、心に傷を負った一匹オオカミのマックスが行きがかりから弱者を助け、ひとつの神話が生まれるというコンセプト。そして改造車やバイクや衣装の、カッコいいんだかハレンチなんだか紙一重な異様なデザインセンス。後のジャンル映画に与えた影響の大きさは「エイリアン」や「ブレードランナー」にも匹敵する。「マッドマックス」なくしては「ONE PIECE」のようなマンガだって生まれなかっただろう。
最もハリウッド的だといわれる3作目「マッドマックス/サンダードーム」は興行的にも批評的にも振るわなかったが、ドーム型のオリの中でゴムにつるされた戦士が殺し合う競技「サンダードーム」のヘンテコさや、よりSF味を強めた後半の転調など、ミラーのおかしくも頼もしいやりたい放題がさく裂。なんなら最もカルト感が強い怪作であり、筆者は過小評価が覆る日が来ると信じている。
まさかの復活 続く進撃「怒りのデス・ロード」
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」©2015 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
そして「サンダードーム」から30年後の2015年、何度も頓挫しながらまさかの復活を遂げた第4弾「マッドマックス 怒りのデス・ロード」が公開され、世界の映画ファンを驚愕(きょうがく)させた。
女性の抑圧からの解放という今日的なテーマ性を取り込みつつ、ミラーが当初から抱いていた「音のついたサイレント映画」という構想をさらにソリッドに研ぎ澄ませ、人力アクションのつるべ打ちで濁流のように観客をのみ込むハイでノンストップな2時間の地獄行脚。これが公開時70歳のジョージ・ミラー監督と(さらに3歳年上の)名撮影監督ジョン・シールによって生み出されたことも奇跡なら、カオスな舞台裏を知れば知るほど完成したことが信じられなくなる奇跡の大盤振る舞い。老いてますます盛んな映画監督は大勢いるが、この年齢でミラーほどエネルギッシュな作品をものにした者はいないのではないか。
そしてミラーは、シリーズで初めてマックスを主人公としない「デス・ロード」の前日譚(たん)「マッドマックス:フュリオサ」まで完成させてしまった。「デス・ロード」が鮮烈すぎてもう9年たったことすら信じられないのに、いささかの老いの気配も感じさせない堂々たる新章がシリーズに加わったのだ。聞けばまだまだシリーズの継続に意欲的だそうで、バケモノのごとくパワフルな老爺(ろうや)の進撃はどこまで続くのか、奇跡と伝説が更新されることに期待せずにいられない。