誰になんと言われようと、好きなものは好き。作品、俳優、監督、スタッフ……。ファン、オタクを自認する執筆陣が、映画にまつわる「わたしの推し」と「ワタシのこと」を、熱量高くつづります。
「早乙女カナコの場合は」©︎2015 柚木麻子/祥伝社 ©︎2025「早乙女カナコの場合は」製作委員会
2025.3.16
「早乙女カナコの場合は」 橋本愛は〝クソ野郎〟に搾取なんかされない!
「怖いでしょう。会いに行って拒否されるのが。本当はとっくにママに捨てられていることに気づいて……」。激高した少年が振り回したトロフィーで彼女が頭を殴られると、ノートパソコンの画面には書き終わっていない手紙が見える。そこで続くセリフ。「先生。あの日 偶然、先生を見かけて、私は」
スクリーンを見ていた私はその瞬間、「告白」(2010年)の北原美月と共に死ぬような気がした。「一体誰だ」。たった2作品の映画に出演しただけの子役だったが、その演技が信じられないほど素晴らしかった。顔を覚えていたのはオタクやストーカーだからではなく、生まれつきの記憶力のおかげだ。ずっと待った後、エンディングクレジットで彼女の名前を見て、まだ明かりがつかない劇場でメモ用紙に書き写した。覚えやすいが、強烈な名前だった。橋本愛。
トークライブで感じた映画への「愛」
その名前に(本人が知っているとは思わないが)私が関わるようになったのは、それから7年後、こまばアゴラ映画祭で見つけた才能あふれる女性監督・瀬田なつきの作った井の頭公園100周年記念作「PARKS パークス」を通じてだった。いつの間にか大人になった彼女は、「成長」ではなく「進化」していた。いろんな面で。関わっていた映画祭に作品を招待したが、監督にしか会えなかった。 その後、オムニバス映画「21世紀の女の子」も招待したが、出演していたのはその一編「愛はどこにも消えない」だけで、予算上、航空券とホテルを提供できなかった。
結局、彼女のゲストトークをライブで見ることができたのは、そのさらに後の2023年、釜山国際映画祭だった。東京造形大学出身の新人監督・山本英のワールドプレミア作品「熱のあとに」の主人公として参加していた。大学(韓国中央大学演劇映画学科)の後輩がシナリオを書いた作品だったため感慨無量だったが、さらにうれしかったのは、彼女の才能にじかに接したのもさることながら、名前にある通り本当に映画を「愛」していることが感じられたからだ。
そんな彼女が、筆者が執行委員長アドバイザーを務める全州国際映画祭で出会ったプロデューサーが製作に参加した「早乙女カナコの場合は」で主演を務めた。もちろん、彼女が主演した作品は1本や2本ではなく、特記すべきことでもないかもしれない。問題は作品である。
「早乙女カナコの場合は」©︎2015 柚木麻子/祥伝社 ©︎2025「早乙女カナコの場合は」製作委員会
「ママと娼婦」か「セント・エルモス・ファイアー」か
映画が始まってカメラが春のキャンパスを映すと、まだ若い彼女が「太宰治のイケメンバージョン」でボイスも魅力的な啓士(中川大志)と一緒に倒れる。次のシーンで、42歳で拳銃自殺したフランス人映画監督ジャンㆍユスターシュの言葉が書かれたサークルルームのドアを開けて入ると、啓士が模型拳銃を握って座っている。そしておなじみの展開だ。一緒に踊って恋に落ちる2人。
ジャンㆍユスターシュの「ママと娼婦」の主人公アレクサンドルのオマージュという暗示が何度も登場する(しかし筆者の目には、学友が未来を設計するなか一人だけ毎日を卒業パーティーのように過ごし、それが情けないというよりもむしろオーラに感じた「セントㆍエルモスㆍファイアー」のロブㆍロウを連想させた)。まもなく啓士と彼女との間に、ある意味「三角関係の必須要素」ともいえる挑発的な幼い女性、麻衣子が割り込む。
「まさか」。クリシェすぎじゃないか。本当にこの映画が「ママと娼婦」のオマージュなら、「早乙女カナコの場合は」はだらしない「クソ野郎」に2人の女性が何の抵抗もなく搾取されるだけのストーリーになってしまう。しかし、宣伝用のシノプシスに書かれているこの部分の後ろから、本当のストーリーが始まる。
立体的なキャラクターの饗宴に膝を打つ
カナコの内定先の先輩が割り込んできて、緊張感が造成された瞬間に筆者の頭に浮かんだのは、大学の先輩で名前のハングルの発音まで似ているため、入学後しばらく周りから「君はどんな映画を作るのか」という迷惑千万な質問をされるきっかけになった、洪尚秀(ホンㆍサンス)。愛の支離滅裂さと「どこまで壊れるだろう」と思わせる登場人物たち。四方に入り乱れる男女。しかし、この賢い映画はモノクロの画面で観客をもどかしくしたり、終わらない飲み会のシーンで眠気を誘発したりしない。誰も予測できない奇抜な話が続き、あえてジャンㆍユスターシュの映画を思い出す必要もなくなってしまう。そして、まるで千の顔を持つ「愛というやつ」のように、絶えず変身する立体的なキャラクターの饗宴(きょうえん)を見ながら何度も膝を打つ。「なるほど」という日本語の表現は、まるで本作のために存在するようだ。
そこでスタッフを見てみると、「スイートリトルライズ」「不倫純愛」「太陽の坐る場所」「××× KISS KISS KISS」「無伴奏」「スティルライフオブメモリーズ」など、何とも定義できない映画で常に次回作を待ち遠しくさせた矢崎仁司監督と、朝西真砂のシナリオのコンビの新作であることを確認して納得した。では複雑で、あちこち悩みの種がいっぱいある映画なのだろうか。いや、「上品」なコミックタッチの場面を周到に配置した語り口に何度も爆笑する瞬間が、この映画の最大の美点なのだ。そのサービスだけを考えても、2000円の入場料は全く惜しくないだろう。
最後に「やはりダメ男がモテる」という旧態依然の話ではないかと躊躇(ちゅうちょ)する人がいるかもしれないので、一言だけ付け加えたい。「あなたの性別が何であれ、予告編とポスターで違和感を覚えたあの長髪を、時間がたつにつれて好きになるだろう」と。