音楽映画は魂の音楽祭である。そう定義してどしどし音楽映画取りあげていきます。夏だけでない、年中無休の音楽祭、シネマ・ソニックが始まります。
2024.5.30
トノバン・加藤和彦が語った「イムジン河」への思い 「アジアに帰らないと」 毎日新聞・戦後60年の記事から
31日公開のドキュメンタリー「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」で、改めて注目が集まっている加藤和彦。生前の2005年、戦後60年を機に毎日新聞がインタビューし、「ザ・フォーク・クルセダーズ」が歌った「イムジン河」について聞いている。ドキュメンタリーの中でも「イムジン河」の発売中止など発表にまつわる経緯が語られているが、加藤本人はどう考えていたのか。2005年8月15日、終戦記念日に掲載されたインタビューを再掲し、その思いを確かめてみたい(年齢などは当時)。
隣人への思い流れる純情――アジアにはいろんな問題が山ほどある。解きほぐしていくにはアジアに帰らないと
歌は思いもかけぬ伝播(でんぱ)力を持っている。「イムジン河」はとりわけ、そうかもしれない。平壌で生まれた歌曲が、ひょんなきっかけで京都の大学生グループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の心に届き、平和を願う歌として歌い継がれてきた。
グループのリーダーだった加藤和彦さん(58)に東京・銀座のホテルで会った。いまや日本を代表する作曲家、音楽プロデューサー、すっかりエグゼクティブな人なのに、やんちゃな顔がのぞく。さすが、アングラの元祖なんていわれてただけはある。
「大げさな意識を背負って歌ってたわけじゃないんです。あのころの京都、いまもそうですが、在日韓国人、在日朝鮮人がたくさんいる。クラスにもいたしね。北朝鮮への帰還運動も続いていたのかなあ。問題は日常的に内在してたんです。共存はしているんだけど、どこか垣根がある。韓国がどうだ、北朝鮮がどうだっていうんじゃなく」
少年の純情 鴨川に託し
「イムジン河」とフォークルを結びつけたのは親友のエッセイスト、松山猛さん(59)だった。中学生のころ、サッカーの交流試合を申し込みに銀閣寺近くの朝鮮中高級学校を訪ねると、校門のところでふっと聴こえてきた。その物悲しくも美しいメロディーをそのまま口ずさんでいた。訳詞をつけた。松山さんが振り返る。「引き裂かれた民族の統一を夢見て。少年の純情ですよ。僕らの見立てでは、鴨川がイムジン河でしたけどね」
松山さんうろ覚えのメロディーを加藤さんが採譜し、コンサートで歌いはじめた。「受けました。ベトナム戦争の真っ盛りでしたから、反戦の思いはありました。でも、日本は戦争しているわけじゃない。アメリカの戦争に反対、反対だって歌ってるだけじゃバカみたいでしょ。もっと身近な問題は何か、みんな考えていたと思うんですよ」
♪おらあーしんじまっただあ……、1968年、フォークルは「帰ってきたヨッパライ」でレコードデビューした。なんともふざけたこの歌が大ヒット、続くシングルが「イムジン河」の予定だった。隣人の現実へ目を向けたのである。大まじめで。だが、13万枚もプレスしながら、発売中止になる。朝鮮民謡だと思い込んでいたこの曲に原作者がいたのである。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)サイドから抗議を受けた。作者の明示がない、日本語詞が忠実でない、と。
歌そのものに力があった
手記があった。<泣いた。ちくしょう! くやしさがこみ上げた。プロの世界に入って、初めて、権力というか、ある大きな力に敗れてしまった。しかし、このうたが、多くの人に知られ、そして、労音のステージでうたうたびに、全国に広がり、大コーラスとなった。その意味でもアピールしたことが、僕たちの唯一のうれしさでもあり、「イムジン河」自身にとっても、倖(しあわ)せなことだったのかもしれない>(「フォークル懺悔(ざんげ)録」、「婦人公論」68年11月号)
「うーん、そんな気持ちだったかな。ラジオでもピタッとかからなくなったしね。それにしてはイムジン河はものすごく知られている。ナマで聴いた人はほとんど関西だし、自主制作のレコードは250枚、10人聴いても2500人。なのに下の世代まで知っている。まるで『リリーマルレーン』。歌そのものに力があったと思いますね」
原曲(「臨津江(リムジンガン)」)は朝鮮戦争後の57年にできた。植民地時代からのプロレタリア詩人として知られる朴世永(パクセヨン)の詞である。北朝鮮の国歌「愛国歌」の作詞者でもあるが、日本で広まったこの歌の評価は意外にも低い。平壌の「朝鮮大百科事典」をひいても、彼の代表作にすらあがっていない。首領さまを持ち上げる文学のみがもてはやされ、センチメンタルな文学は顧みられなかったからだろう。
とはいえ、原詞の2番は体制礼賛の色がにじんでいた。
河の向こうのあしの原では鳥だけが悲しく鳴き/荒れた野には草むらが生い茂る/協同農場の稲穂は波打ち踊る/臨津江の流れは分けることはできない
「朝鮮語の感じはわからないけど、たしかに北がいいですよってとれますね。この歌詞は歌いたくないなあ。だれも涙しないでしょ。でも、なんだかやわらかいんですよ。雰囲気が。メロディーもそうだし。だいたい国歌の作詞者といえば、バリバリの人でしょ。こんな歌をつくってよかったのかなあって」
第60回毎日映画コンクール表彰式で、「パッチギ!」で日本映画大賞を受賞し喜ぶ井筒和幸監督(左)と同作で音楽賞の加藤和彦=2006年2月、山本晋撮影
「パッチギ!」で再注目
そんな「イムジン河」が戦後60年のタイミングで息を吹き返した。映画「パッチギ!」である。先の松山さんの書いた「少年Mのイムジン河」を原案に井筒和幸さん(52)がメガホンをとった。「日本人は知らんのです。韓国のことも、北朝鮮のことも。祖国が二つに分かれていることも」。♪いむじんがわみずきよくー……。68年の京都の街に流れる「イムジン河」、ヒロインのキョンジャが奏で、思いを寄せる康介が歌ったのだった。
加藤さんは映画の音楽を担当した。その縁あって井筒さんと2人して韓国を旅する。「イムジン河」の舞台、臨津江へ。
「ソウルから近いのに驚きました。東京の都心からだと多摩川くらいかなあ。川は凍っていた。水鳥も飛んでて。歌の通りだった。ベルリンの壁も見たけど、イムジン河は壁じゃないよね。荒涼としてはいたけど。北側には宣伝村があって、トラクターが出て農作業なんかしていた。こちら側には離散家族の人たちがつるしたのか、統一への願いを託した千羽鶴みたいなのがいっぱいあって。改めてイムジン河の重みを感じました」
マルチに活躍を続ける加藤さんはいま、21世紀のアジア人的ライフスタイルを提案する雑誌「わーずわーす」の編集長でもある。それもまた「イムジン河」の支流なのかもしれない。
「日本ってアジアでしょ。なのに、それを意識してこなかった。西洋世界の末席でやってきた。岡倉天心とか、アジア人である自身をプラウド(誇りあるもの)と思っていた。そうした先達の尺度で考えてみたかった。アジアにはいろんな問題が山ほどある。それを解きほぐしていくにはアジアに帰らないと。日本人にそういう意識が芽生えてくれば、中国も韓国もへそまげないですよ。少しは違ってくると思うんですがね」
おしまいにこんなアイデアが出た。「九州ってアジア的ですよ。僕の感覚では。だから博多に遷都したらどうかな。おもしろいかもしれない。これまでにない日本になるよ、きっと」